第1章 駆ける兎の話
「あら、違うわ。香国の決めた事は絶対なんだから…」
ここで初めて私の独り言に返して来た誰かと会話していた事を自覚した。
顔にみるみる血が上って、耳どころか首まで赤くなるのを感じた。
「君はこれから土に来るんだろう?なのに香国が一番なのか。困ったな…」
声は後ろの、多分窓表から聞こえて来る。振り向いて確かめたいけれど、赤い顔を振り向けるのが癪な上に恥ずかしくて動けない。
「困りません。土は香国の属国なんだから、香国に従うのが道理です」
取り繕うように口調を変えたら、笑い声がした。若くて元気そうで朗らかな笑い声だ。
「土は何処の属国でもないよ。君は思っていたよりものを知らないようだ。残念」
「失礼ね!」
思わず立ち上がって振り向くと、耳の長い白兎が園庭の針槐の花にちらちら降られていた。窓辺に頬杖をついて隈取りの赤い目でじっと私を見ている。
「君が兎だと聞いたから、なら私も兎になった方がいいかと思ったんだけど」
立ち竦んだ私を可笑しそうに眺め、窓辺の兎が頬杖を外して背筋を伸ばした。
「驚かせてしまったかな」
そう言うと、兎は、兎のお面を外した。
「私の名前は蜂恵(ファンホイ)」
白い兎のお面の下から、濃い榛色の瞳が覗いた。
「兎じゃなくて蜂でがっかりかな?でも兎に蜂もなかなかの組み合わせだと思うよ」
窓の縁にお面を置いた靭やかで頑丈そうな手が私の手甲を指差した。
「それ、よく似合ってる」
兎の耳元に蜂、土から来た私の可愛い手甲。また顔が赤くなる。
長く通った鼻梁に大きな口、扁桃の形をした目と肩まで伸びた真っ黒な髪を山吹と焦茶の組み紐で一括りにした男の子が、にっこり笑った。
「もし私が厭でなければ一緒に土に帰ろう」
この蜂恵が、狼娘の月狼で沈梅の雷脚師?
私とほんの二三歳くらいしか違わないようなこの男の子が?
ちょっと子供っぽ過ぎない?
「そんな顔しないで欲しいな。私だって、あと二三年したら賢くて強くて男前で、びっくりするような逞しい男になるかも知れないだろ?」
「…逆だったらどうするの?」
「お互いそうならないように頑張ればいいじゃないか。違う?」
「…違わないかも知れないけど…」
「私とでは頑張れそうにない?」
「わからない。会ったばかりでわかる訳ないじゃない」