第1章 駆ける兎の話
いやだ。
私は気が多いのかしら。今この期に及んで月狼を好もしく思ったり、先生の事を思い出したりするなんて。
胸元を押さえて息を吐いたら手甲が目に入って、何だか申し訳ない気分になる。
「気にする事なくてよ」
貴白が可笑しそうに言った。びっくりして顔を上げる。意地の悪い感じではなく、ただ可笑しそうな貴白なんて珍しい。
貴白は黒目勝ちの切れ長の目を細めて私を見ていた。
「見た事も会った事もない相手に心底操を立てたり出来ないもの。身近なものに惹かれる方が自然よ」
月狼と狼娘の去った方を眺めやり、開いた扇で口元を覆う。
「見目は兎も角なかなかの婿がね。狼娘は果報な事」
貴白が犬猿の仲の狼娘に関わるものを褒めるなんて。目を見張ると、貴白は苦笑して更に目を細めた。
「勘違いしないで頂戴。私だって姉妹には幸せになって欲しいと思っているのよ。勿論、あなたにも」
指の長い華奢な手が伸びて、私の顎をひと撫でした。びくんと体を竦めた私にまた可笑しそうに笑い、貴白はスイと薄い衣を捌いて歩き出した。
「よい縁定だといいわね、可愛い兎速?陶器の貴白を忘れてはなりませんよ」
綺麗な声が言い残す。振り向きもせず、何事もなかったように広間へ向かう貴白を見送って複雑な気持ちになった。
貴白は最後まで何だか好きになれなかった。…嫌いとは言わないけど。そこまで貴白を知ってる訳ではないから。
意地は良くない。優しいとも思えない。頭は良さそう。冷たく見えるけど、綺麗。
海月の沈梅とはまた全然違う感じで、よくわからない姉妹。
沈梅には少し近付けた気がしたけど、貴白は遠いままだ。
「…怖いお方ですわね?」
妹猫が小さな声で呟いた。
「うん」
頷くしかない。本当にそうだもの。貴白は何を考えているんだろう。
「あの…兎速様」
妹猫が手にしていた沓を捧げた。
「土の奥方様から預かりました」
「お母様から?」
柔らかな織り布を合わせ縫った、鈴蘭の刺繍が可愛らしい若苗色の沓。手先の器用なお母様が手ずから拵えて下さったのだとすぐわかる。手に取って、胸に抱え込む。
「可愛い沓」
可愛いけど…。外で履くには向かない気がする。
「履きたければ履きなさいとの仰せです」