第1章 駆ける兎の話
「居合わせたのは狼娘の企んだ偶然だが、喜んで言祝がせて頂こう。おめでとう。兎速」
生まれてこの方触った事のないようなごつごつして硬い手が、私の小さな手をぐっと掴んで握り締めた。握手されたんだと気付いて、大きな手を恐る恐る握り返したら、月狼の険しい顔に僅かな笑みが浮かんだ。
あれ。
胸がきゅっと鳴った。顔に血が上ってかっかっして来た。え、何だろう、これ。
「皇女の婿がねとはいえ奥宮まで入り込むのは無作法が過ぎなくて?剣戟の国は何をやらせても型紙破り…」
気を取り直したらしい貴白が薄く笑った。
「北の果ての蛮族の末裔だけあるわ」
「蛮族とは何だ!」
「…陶器の国と言えば」
カッとして貴白に振り上げた狼娘の手を難なく押さえ、月狼が淡々と言った。
「職人気質の狷介の国と聞く。その治世を司る身ならばあなたも苦労が耐えなかろう」
貴白がたじろいだ。月狼はその貴白をじっと見て、眉を顰める。
「駻馬の狼娘に負けぬ気性ならば心丈夫だが、それだけにくれぐれも道を踏み外しなさるな」
見詰めたまま、間を置く。
それからやおら狼娘を見返って、月狼は眉を上げた。
「あまり暴れるようなら今すぐ国に連れ帰るぞ。お前はお前で姉妹を見習え」
「喧しい。帰りたくばひとりで帰れ。私に指図出来ると思うなよ」
鼻息荒く言う狼娘に月狼は顔色ひとつ変えない。
「指図されたくなければ相応の振る舞いを心掛けろ。蛮勇が剣戟の国是ではない事を我から示すのが俺たちの努めだろう」
「言われるまでもない。何だ。また喧嘩を売っているのか」
「お前は出会ってこの方ひとりで喧嘩の売り買いをしているな。早いところ飽いて欲しいものだ」
溜め息を吐いた月狼が、狼娘を担ぎ上げる。
「またこれか。私は荷ではないぞ」
月狼の肩の上でむっつりしている狼娘が何故か羨ましい。
「荷扱いが厭ならば矛を収めろ。いちいちお前の売った喧嘩を買って回るのは骨が折れる」
そう言って私たちに目礼し、月狼は狼娘ごと立ち去った。
月狼の肩でゆらゆらしている狼娘は、初めてこの格好の二人を見送ったときより楽しげに見えた。
「…何だか…頼もしくて…好もしい方ですのね」
妹猫がぼうっと呟く。
「…うん…」
チラッと先生の顔が浮かんで、私は慌てて首を振った。