第1章 駆ける兎の話
貴白は元から意地が悪くて怖かったけど今程怖かった事はない。
「よくお聞き」
扇で口元を覆ったまま、貴白が私と妹猫の上に身を屈めた。
「今の話は他言無用です。要らぬ口をきいて痛い目を見ぬようにした方がよくてよ?殊に女官。狼娘と兎速が去ろうとこの貴白は奥宮に残ります。それがどういう事か…」
言いかけて、白い影みたいな貴白がスッと体を引く。
狼娘が腰の礼剣の柄を貴白に向け、腰に手を当てて笑った。
「童女を脅しつけるな。馬鹿な真似は程々にしておけよ。貴白」
「鞘から抜いて斬りつけて欲しいの?」
礼剣の柄を指先で除けて、貴白が笑い返す。
「礼剣に刃はないし、鞘さえ使う必要はない。お前を叩きのめす程度の事ならば柄で十分だ」
朗らかに狼娘が応える。
「懐刀を抜かせたいの?」
扇を帯に挿して貴白が更に笑う。
「ならば俺がお相手致すが構わぬか」
低い声がして振り向くと月狼がいた。
「妻を害する者は等しく夫を害する者と見做すのが剣戟のやり方だ。逆もまた然り。狼娘に刃を向ければ俺はあなたを殴り倒さなければならない。よしか」
そんなの良い訳ない。
私は思わず貴白と月狼の間に入った。
狼娘をやっつけた月狼がなよなよした貴白を殴ったりしたら、貴白は死んでしまうかも知れない。死ななくても酷い怪我をしてしまう。
「今日は私の晴れの日なの!争い事は止めて!」
鼻白んで一歩引いた貴白も、月狼が現れたのに驚いて一歩出た狼娘も、がっちり立って拳を握っていた月狼も、私に振り払われてまた泣きかけた妹猫も、その場の皆が私を見た。
体が震えた。
「わ、私は土の兎速。縁定して今日国に帰る事になっています。剣戟の月狼様には晴れの日にお運び下さって、こ、光栄にぞ、ぞ、存じます」
ごくんと呑み込んだ生唾が、喉をイガイガと掠めて痛い。
「晴れの日に争い事は忌事。それに狼娘も貴白も姉妹です。喧嘩…じゃなくて、あ、と、戯れが過ぎただけで、大事ありません。だから、あの…」
月狼の険しい顔が凄く怖い。貴白を怖いと思ったのとは全然違う怖さだ。膝がかくかく小刻みに震え出した。
ふと月狼の顔が和らいだ。拳が開いて手が脇に垂れる。
「あなたが土の兎速か」
真面目そうな声は初めての時と変わらないけれど、今はちょっと優しげだ。
「狼娘から話を聞いている」
…何を話したんだろう、狼娘。