第1章 駆ける兎の話
堪りかねたように知香が窘めると、狼娘は綺麗な鼻に皺を寄せてにやりと笑った。
「それでなくとも土の国初の女王(おんなおう)になるのだ。それが突き返されるとあればこれ以上愉快な前例はあるまいな。後続が気楽に治世出来るというものだ。兎速、どうだ?私を腹から笑わせてみないか?」
「ひとりで勝手に笑ってなさいよ。狼娘なんか婿がねに半殺しの目に合う定めのくせに」
狼娘の剣戟の国では、男は求婚代わりに女を完膚無きまで叩きのめす。自分より強い男以外伴侶と認めない北の女は、そうまでされなければ身を任せるのを良しとしないからだ。
実際狼娘は、今までに三人、求婚者を返り討ちにして国へ突き返している。
「おお、その日が楽しみで夢にみるくらいだよ。私を得る程の男なら、手足の二三本は易易とへし折ってくれるようでなくては困るからな」
楽しそうに言う狼娘に、卓についた姉妹たちが鼻白むのがわかる。我関せずで白粥を啜る沈梅以外の匙や箸が止まった。厭な感じだ。そろりと卓から離れる。
「野蛮な」
誰かが呟いた。
「ほう」
狼娘は眉を上げて姉妹を睥睨した。
「誰だ?」
「狼娘」
知香が慌てて腰を浮かす。
「そろそろ槍術の時間よ。兎速、今日は農学の師がお見えになる日でしょう。沈梅、お父様が古詩の写本を急がれるように仰っていてよ。涼快(リャンクァイ)、算術の課題は出来ていて?遊華(ヨウフゥア)、謁見の間の小卓に茉莉花を生けて欲しいと侍従長が言っていたわ。さ、皆、今日も各々気持ちよく務めましょうね」
白くて柔らかな手を打って、奥宮で一番の血筋を持つ皇女が皆を促す。幾ら陰で間抜けたお節介者と嘲っていても、誰が知香に逆らえるものか。いずれ香国の皇后になる身の上の知香だもの。
「十二で縁定では納得いきますまいが」
通りすがりに沈梅が独り言みたいに話しかけて来た。
「それがあなたの国の仕来りなのだから仕方ない。良い治世を心懸け、お励みなさい」
カッと頭に血が上った。握った拳が震える。
違う。
私は縁付くのが厭なんじゃない。治世を拒む訳じゃない。
ただ。
…ただ…。
「おい兎速。突っ立ってるんじゃない。行くぞ」
もうケロリとした狼娘が知香の隣で手招きする。知香が優しく笑っている。
嫌いだわ。知香なんか。