第1章 駆ける兎の話
「そう。沈梅は行ってしまったのね」
泣きじゃくりながら沈梅が国に帰った事を告げた私の背中を、知香は優しく撫でてくれた。
絹地の衣装は鳥の子、重ねられた下衣は丁子色、耳朶と首元に珍珠、香りは百合、穏やかな声。
「本当に行ってしまったのね。…寂しいわ」
静かに溢れたその言葉は、沈梅に向けたものか、それとも沈梅と共に去っただろう人に向けたものか。
どちらかにではなく、二人に向けたものならいいと思った。知香と沈梅と雷脚師、三人の為に。
「さあ、何時までも泣いていては駄目ですよ。顔を洗いなさい。今日はあなたにとって晴れの日、笑顔でいなければいけないの」
自ら笑顔を見せながら、私の手をとった知香の桜色の爪先に、僅かな泥が黒く潜り込んでいる。
「あなたの為に蓮花を摘んだの。束ねて支度してあるから、良ければ持って行ってくれると嬉しいわ」
私の目線に気付いた知香が、泥のついた爪先を庇うように撫でてはにかんだ。その手を今度は私から握った。
「ありがとう、知香。とっても嬉しい。一生懸命歓迎するから、いつか知香もきっと土に来て頂戴ね」
「兎速も度々香国に来てくれるわね?私は何時でもここで待っているから…」
そう、知香はずっとここに居る。皆が国に帰った後も、ずっとずっと、香国に居続けるのだ。
「沈梅はまた会えると言ってたわ。狼娘だって、もう顔を出した。私もきっと知香に会いに来るからね」
両手で知香の手を握って上下に振りながら一生懸命言ったら、知香は嬉しそうに目を細めた。
「ずっとあなたとこんな風に睦まじくしたいと思っていたの。あなたは私をあまり好いてくれてはいないようだったけれど」
「…そんな事…」
言いかけて、首を振る。
「…うん。本当は、あまり好きじゃないと思ってた…」
「正直ね」
知香が可笑しそうに声を上げて笑う。私は慌てて知香の顔を覗き込んだ。
「でも違うの。嫌いだと思ってたけど本当は嫌いじゃなくて、好きって思うのが嫌で嫌いでいたかったの」
「どうして?」
「私、知香が羨ましかったの。穏やかで優しくて、香国にずっと居られて、私より狼娘と仲が良くて、それに……それに、一番土から遠かったから」
穢れた土の国から一番遠いのが天子の香国。私から一番遠いのが知香。
「私、土の子なのが何処かで嫌だったんだと思う。だから…」