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香国 ー駆ける兎の話ー

第1章 駆ける兎の話



「申し訳ありませんが、私には人が人を恋うる心の機微がよくわからないのです。だから正直、何と言っていいかわからない」

沈梅が目を茫洋と泳がせて園庭を見遣った。
渡りの回廊の太い柱に今にも寄りかかりそうな様子で佇んで、取り留めない表情を浮かべている。
思い起こすと沈梅は、昔からよく何かに寄りかかっていた。我が強く我の色をこれでもかと表す姉妹の中にあって、周りとの関わりを流し続け、しゃんと立つのを拒絶するようにぐんなりとしているのがこの長姉だった。

「そもそもあなたたちの気持ちが理解出来ない。…怒らないで下さいよ?私はどうもあの人を好ましく思えないのです。似通ったところが煩わしいばかりで遣り切れない。恐らくあちらも同じ様に思っているでしょう。似通っているだけに、そんな事まで互いによくわかってしまう。何故選りに選って私とあの人なのか。これが良い縁とは思えない」

呆気にとられた。沈梅がこんな風に先生の事を思っていたなんて、いや、先生を好きになれない人がいるなんて、思ってもみなかった。

「先が長い事を考えると、息が詰まって逃げ出したくなります」

海月の沈梅がふらりと居なくなるのはよくある事。
でもこれからはそんな風にしちゃいけない。一緒に治世する先生が困らされてしまうから。
沈梅には悪いけど、好きでもない相手に振り回されるなんてそんなのあんまり先生がお気の毒だ。
私の心配そうな目に気が付いて、沈梅は苦笑いした。

「安心なさい。私も立場は弁えていますよ。奥宮で矯められなかった悪目を国で正せるかどうかはわかりませんが、最善は尽くす気でいます。国の為に」

溜め息混じりに洩らし、両の手を袖に潜り込ませて前屈みに私の目を覗き込む。

「さて、お別れは言いませんよ、土の兎速。また必ず会う事がある筈ですからね。前を見据えてしっかり歩みなさい。互いに良き治世を。彌栄」

肩に手を置き、擦れ違って去った沈梅から、埃っぽい書物の匂いがした。先生と同じ匂い。
そして、ずっと一緒に過ごして来た沈梅という姉の匂い。

不意に何か言わなければいけない気がして慌てて振り返ったら、一重梅の衣裳の裾がひらりと回廊の角に消えるのが見えた。

ぽろりと涙が溢れた。

両手で顔を覆って、しゃがみ込む。

知香が見付けてくれるまで、私はそこで泣き続けていた。











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