第1章 駆ける兎の話
物心つく前からずっと伏し起きして、泣いたり笑ったりして過ごした私の室に、頭を下げてお礼を言う。今度はこの室にどんな姉妹がやって来るんだろう。いずれにせよ、私がここに戻る事はもうない。
緊張を煽る太鼓の音をなるべく意識しないように気を付けて、姉妹たちが空いた時間に集う昼の間に向かった。色んな事が始まって堅苦しくなる前に、皆に挨拶をしておきたい。
物思いしながら歩いていたら、一重梅と薄墨色の文官のような衣裳を着て長い髪を一括りに垂れた沈梅に行き会った。晴れやかな衣裳ではないが、沈梅によく似合っている。学士の国の正装だろうか。こうしていると海月の沈梅がちゃんと大人の女に見える。
「正装した花嫁がひとり歩きとは、また珍しいものを見ますね」
午睡明けらしいのにまだ目の下に隈を浮かべた沈梅が驚いた様子で足を止める。
「こういうときは女官が付ききりの筈ですが」
「沓を探しに行ったのよ」
「沓?」
沈梅は私の足元を見て首を傾げる。
「履いているじゃありませんか」
「これは私の沓」
「ああ」
額隠しから沓まで、改めて私を見直した沈梅は、顎先に指を添えて頷いた。
「沓だけ自前な訳ですね」
「そう」
「衣裳に添えられていなかった?」
「うん」
「成る程」
沈梅は、もう一度私を頭の上から足の先まで眺め渡して、腕を組んだ。
「ならそれでいいのでしょう。構わずお行きなさい」
「そうする。…昼の間に行って、皆にお別れの挨拶をしようかと思っているんだけど、沈梅も一緒に行かない?」
一人が決まり悪くて誘ってみたら、沈梅は首を振った。
「いいえ、私は行きません」
「忙しいの?」
「私が忙しかった事などありますか」
変な事を真面目に言うから、笑ってしまう。
「ですが今日は事情が別です。私は一足先にお暇させて頂きます。待ちきれるかどうかわからぬ人を待たせておりますので」
…待ちきれるかわからない人…。
ああ、学士の現王はもういけないんだ。笑いが萎んだ。
「学士の現王はもう意識がない。跡目に就かねばなりません」
そこまで言って口籠り、沈梅は変な顔をした。
「あなたや知香には、気の毒な事になりました」
何と答えていいかわからなかった。私の気持ちまで知っていたの?だけど、私も知香も沈梅に気の毒がられる筋合いなんかない。
腹が立った。