第1章 駆ける兎の話
狼娘と入れ違いに、女官が来て湯浴みと身繕いを手伝ってくれた。私と同い年くらいの女官は、初めて見る土の装いを物珍しげに見て、羨ましがった。
「可愛らしい手甲でございますね」
はにかみながら手甲の紐を結ってくれた女官は、名を妹猫(メイマオ)と言った。
「猫をかがった手甲をくれるような良い男が、いつか私にも出来ればいいのですけれども」
良い男かどうかはわからないけど、私もこんな贈り物をしてくれる人なら、好きになれそうな気がする。
まだ分からないけれど、多分。
妹猫が丁寧に乾かして櫛った髪を結い上げくれた。茉莉花の香りの髪油を差した髪から良い匂いがする。
窓から風が吹き込んで来た。間もなく午、朝の名残りを含んだの爽やかな午上の空気も熱を持ち始めた。園庭の草いきれに茉莉花の香油が混じって匂い立つ。額に浮かんだ汗を妹猫が拭いてくれた。今日も暑くなりそうだ。
額隠しを着けたとき、表からドドンと大きな太鼓の音がした。びっくりして背筋を伸ばした私に、妹猫が笑顔を向ける。
「お迎えがお見えになったみたいですね」
二度三度、ドンドドンと太鼓が鳴る。緊張して手足の先が冷えた。
本当に迎えが来た。
「…あら…」
手際よく動いていた妹猫が手を止める。困ったように辺りを見回す。
「どうしたの?」
「沓が見当たりません。兎速様」
「沓がない?」
言われて見れば広蓋は空だし、その周りにも沓は見当たらない。
「忘れてしまったのかしら」
呟くと、妹猫は目を見張って首を振る。
「この晴れの日にまさかそんな事ございません」
女官長に聞いて来ると妹猫は慌ただしく室を出て行った。
「別に構わないのに…」
なければ手持ちの沓を履けばいい。額当てや手甲の可愛らしさからして、沓も紫珠の沓に負けないくらい素敵なものだったかも知れない。そう思うとちょっと残念だけれど、それも大した事じゃない。
まだ鳴り響く太鼓の音を聴きながら、私はぼんやり空の室を見回した。
天蓋が風に揺れて乱れた陰を床に落とす。窓辺の小卓には、荷物に入れなかった壺に挿した薫衣草。
立ち上がって窓辺に寄る。この室の窓から見る園庭が好きだった。春夏の樹花の彩り、秋枯れ、雪景色。晴れ、雨、曇り、雪、嵐のときでさえ。
私は妹猫を待たず、自分の沓を履いた。室の口まで行って振り返る。
「今までありがとう。行くね」