第1章 駆ける兎の話
朝食をすませ室に戻って間もなく、女官が着替えを捧げ持って現れた。ゆったりした若苗色と白の襲、空色の帯。戸惑ったのは、幅広の額隠しが添えられていた事。仔猫の和毛の様に柔らかな茶色い額隠しは、中央に不思議な紋様が細かく刺繍されていた。
「面白いな。冠代わりか?」
一緒に碁に興じていた狼娘が、掌で黒白の小石をじゃらじゃら言わせながら綺麗に揃えられた衣裳を覗き込んだ。骨の太い長い指で、額隠しの紋様をなぞる。
「花、草、樹…牛に豚に鶏?変わってる。両脇にあるのは稲と麦か。月と、太陽…これは、蜜蜂だな?ふん?こりゃ凄い」
狼娘の言葉と指に添って額隠しの紋様を追う。細かい。そして、とっても綺麗。綺麗で…変かも知れないけど、凄く可愛い。胸がどきどきした。
「おや。これを見ろ。兎速」
衣裳の下から狼娘がするりと額隠しと同じ色の手甲を引き出した。受け取って、頬が緩む。
浅緑の糸で縫い取られた兎が、手甲の表で跳ねている。その耳元に、金色の蜜蜂。
「…可愛い…。私、これ、凄く好き…」
「そうだろうな。うん。これはいい。気が利いてるじゃないか」
膏薬を貼り付けた鼻先を撫でた狼娘が優しく私と手甲を見比べた。
「良かったな」
「…うん…」
手甲を胸に押し当てて、私はまたどきどきした。
誰が、どんな人が、これを贈ってくれたんだろう。何を思って、私にこれを見繕ってくれたんだろう。
「土の民は手先が器用と見える。縫いの国も顔負けじゃないか」
額隠しの刺繍を仔細に調べながら、狼娘が感心したように唸った。
「土は他国と交わっていない筈だが…あの花を挿した壺、あれももしかして土で作ったのか?」
「え?…わからない…」
「ふむ。…一国でこれだけの仕事が間に合うのでは他の間尺に合わないな…」
難しい顔で呟く。
「え?」
「土の交易は今どうなっている?…と、今のお前に聞いても無駄か…」
狼娘は肩を竦めると、額隠しを衣裳の上にそっと置いた。じっともの問いたげに見詰めたら、朗らかな笑顔が答える。
「何をするにつけても腕の立つ者は重宝だ。国に帰ったら大事に隠しておけよ」
冗談とも本気ともつかない調子で言うと、狼娘はすいと立ち上がった。
「さあ、せいぜい装って皆を驚かせてやれ。私はそろそろ月狼のところへ戻ろう。私がなかなか戻らぬで、きっとやきもきしているだろう」