第1章 駆ける兎の話
また急な話だ。狼娘の剣戟の国の様な特別な求婚は、今残る姉妹の国にはなかったように思う。そんなに早急な縁定があるのは、そもそもの仕来りがそうした形か、もしくは国が乱れて現王を排さなければならないとき…いや、現王が突然に身罷ってもある事だ。
乱れる兆候はどの国にも今のところない。国政に関わる事なのだから安直に断じれないが、少なくとも急な反乱があれば姉妹皆で呑気に七姐誕などしていられないだろう。
とすれば、現王が身罷りそうな国。
例えば沈梅の国の現王は、このところの暑さに臥しがちになっていて、高齢の王だけにその経過が思わしくないと聞く。
「他国へ養子に出ていた人がお相手なの。国に呼び戻すらしいわ。遠縁同士なんですって」
知香の話から"主"が抜けている。誰の話だかわからない。
「この話が出るまで遠縁同士なんてお互いに知らなかったらしいの。それが知れた途端に縁定なんて、さぞ驚かれたでしょうね」
だから、誰の話?
「また置いて行かれてしまうのね。仕方ない事だけれど、本当に寂しい」
そう言った知香にチラッと目を向けると、笑っていた。何だか空っぽな目で、それでも優しく笑っていた。
「帰って行くあなたたちに私の気持ちはわからないでしょうね」
カサカサに乾いた声だ。知香じゃないみたいな。
「私だけ置いて行かれるのよ、この香国に」
「香国は良い国だわ。私は香国が好き。出来たらずっとここに居れたらって…」
口籠りながら言ったら遮られた。
「それはあなたがいずれここを出る身の上だから言える事なのよ、兎速。あなたが土に帰りたくないように私が香国に居たくないと言ったら、あなたは私に何と言って答えるの?」
香国の跡目を継ぐ知香が香国を出るなんて事は有り得ない。知香以外の姉妹が国帰らないのと同じ…いや、それどころではなく、絶対に。
答えられない私の手をまたキュッと握って、知香は何時もの優しい知香に戻った。
「今度縁付いたふたりは揃って頭が良いから、きっと良い治世を施すでしょう」
言われて閃くものがあった。ハッと四阿を振り返る。
四阿は空になっていた。沈梅も、沈梅と話していた相手も居ない。
知香が立ち止まった。
「沈梅にはもう会えないかも知れないわね。古詩の写本を急がなければいけないから、お父様の在られる本宮に籠もるの。あなたが発つのに間に合うといいけれど」