第1章 駆ける兎の話
釣られて立ち止まりまじまじと顔を見たら、知香の目から涙が滑り落ちた。
「…寂しくなるわね…」
七姐誕は途中から雨になった。
醴を呑んで乾果を幾つか口にして、知香は楽しそうに姉妹たちが笑いさんざめく様を眺めていた。
私は遊華と涼快が回して来るお菓子をぼんやりしながら山程食べて、雨の降る頃にはお腹がはち切れそうになってしまった。
腹の皮が張ると目の皮が弛むと言ったのは誰だったかな。先生だったような気がする。
うとうとしたところで月が叢雲に隠れ、いきなり大粒の雨が降り出した。
姉妹たちが温かい雨に楽しげな悲鳴を上げながら小走りに奥宮へ向かう。
他人事みたいに蝶の群れみたいな姉妹を見送っていたら、優しい手がそっと腕に掛かった。
「夏の雨でも濡れては体に毒よ。行きましょう」
豊かな黒髪から雨の雫を滴らせた知香が椅子に腰掛けたままの私を見下ろしている。
雨が夏の蒸気を呼んで、また洗い流す。
園庭が濃く匂っていた。草や花、池の溜水、木の幹、カラカラに乾いた庭石、そして、土。知香の百合の香。
奥宮に向かう間、知香の手はずっと私の背中に添えられていた。あんなにかじかんでいた手が、今は濡れた衣越しにも温かかった。
途中、針金雀児の茂みの暗がりに見慣れた人影が佇んでいるのを見た気がした。少し猫背気味の、着込まれて柔らかな線を描く衣裳を身に着けた姿が目の端を掠める。
けれど、私も知香も、そこをただ通り過ぎて振り返らなかった。それが誰だか、私たちはふたりとも分かっていた。だから、振り返らなかった。
私は土の国に帰る。
香国で生まれ育ったけれど、私の半分は土だから。
土泥は穢れたものだから土の国に行く者はいないし、土がどんな国か知っている者も少ない。
でも土は属国を含め香国が治める人たちの口を養っている。
米も野菜も肉も、皆土から諸国へ運ばれて来る。魚は海士と河士の国、果物は果樹の国が請け負っているけれど、土からやって来る食料がなければ瞬く間に皆飢えてしまうだろう。
土に帰ると決まってから、ずっと不思議に思って来た事が改めてはっきりした形を取り始めた。
どうして皆土のものを口にしながら土を馬鹿にするんだろう。