第1章 駆ける兎の話
輪から外れる事もその中心になる事もなく、誰かに嫌われる事もなく、だからといってただそこに居るだけみたいな扱いは受けず、皆に認められている。
この涼快の気質が商人という生業に向いているのかいないのかはよくわからないけれども、なかなか凄い姉妹だとは思う。
こんな騒ぎが起きたら、それこそ"怖い"狼娘でもいなければ収まらないと思っていた。
最も狼娘なら、間違いなく渦中に居て怒鳴り散らしているだろうから、どの道仲裁は無理だろうけれど。
貴白や紫珠の方は見ないようにして、菓子を口に入れる。睨み合いながら食べたのでは、美味しいものも不味くなる。そんなの作ってくれた厨師に失礼だし、その手伝いにてんてこ舞いした女官たちにも悪い。折角の菓子にも申し訳ないし。
「美味しい」
桂心をひと齧りしたら、空腹だったのをお腹が思い出したみたい。噛んで呑み込む。齧って噛む。肉桂と蜜の風味や甘み、脂の旨味が、もっともっとと手を引っ張る。
豆沙団子の餡をふうふう吹きながら、食べ物って凄いなと思った。食べるのは幸せな事だし、楽しい事。それに、誰も食べずに生きては行けない。そう、誰でも食べずにはいられないんだ。
神の血を継ぐ天子だというお父様でさえも、こんがり焼いた鵞鳥のつみれや、羊の腸を使って作る香草たっぷりの挽肉の詰め物、蜜入りの粉を練って揚げた菓子なんかが好物でいらっしゃるくらいなんだから。
ひと頻り御馳走を食べて醴を呑み干したとき、姉妹の談笑がぴたりと止まった。
醴の芳ばしい後味に息を吐いて、葡萄の乾果に手を伸ばしかけた私は遊華にその手を止められてきょとんとした。遊華が尖った顎を私の後ろにしゃくる。
何だろうと振り向いて、びっくりした。
知香が居た。
珍珠を控えめにつけ、派手ではないけれど仕立ての良い美しい衣裳を纏い、豊かで艶やかな黒髪を結い上げた知香は、泣き腫らした赤い目をして佇んでいた。
寂しそうに。
姉妹たちが知香の様子に困惑している。私だってそうだ。
どうしよう。
こんなとき、狼娘が居てくれたらいいのに。狼娘は誰より上手に知香を笑わせる。どんなに怒っていても悲しんでいても、知香は狼娘と居ると笑ってしまう。
狼娘は知香を絶対に放っておかなかった。
知香が好きだから。
だけど私は狼娘じゃないし、狼娘ほど知香が好きな訳でもない。
私と知香は狼娘が居たから一緒に居れたんだ。