第1章 駆ける兎の話
先生が誰を好きでも、私は先生が好きだった。物知りで穏やかな先生が大好き。
「先生と一緒に土に行けたら良かったな」
「何時か訪れる事はあるかも知れませんが、私が行くのは土ではありません」
先生も空を見上げて、眩しげに言った。
「先生は色んな国を歩かれるから?」
問いかけると、首を振って否定された。何かの事情で通用の国に帰るのだろうか。それとも何処か気に入った国に落ち着くつもりなのか。…例えば知香の居るここ、香国とか。
けれどそれきり、先生はその話をしなかった。
そのまま向き合ってお茶を呑んで、女官が宮に入るよう迎えに来るまで育種や栽培、土質の話をした。土に帰ったらきっと役に立つ農学の話。
先生は、やっぱり先生だった。
日暮れて七姐誕の催しが始まった。
美しく飾り立てられた四阿を、蝶のようにめかしこんだ姉妹がひらひらと出入りする。御馳走の並んだ卓には遊華の生けた花が匂い、貴白自慢の茶器がとろりと滑らな肌味に品の良い輝きを浮かべて鎮座している。
見回しても、知香の姿はなかった。午上に話して別れたきりの先生の姿も。
「無粋ですよ」
キョロキョロしている私に声を掛けて来たのは沈梅だった。合歓の木に寄り掛かり、夕間暮れの園庭を目を細めて眺めている。
「あのふたりにはもう時間がありません。放っておくのが厚情というもの」
知ったような事を言われてカチンと来た。
「時間がないって、先生が何処かへ行ってしまうって事でしょ」
私だって先生とそのくらいの話をした。そのくらいの話でしかないけれど。
沈梅は意外そうに目を開いて私を見、それから面白そうな顔をした。
「雷脚師が、あなたにそう言った?」
「言ったら何だって言うの?沈梅に関係ないでしょう」
ぴしゃりと言ってやったら、沈梅は顎を引いて口を噤んだ。何か考え込んでいる。
「あの方もなかなか隅に置けませんね」
やれやれというように肩を竦めて、沈梅は合歓の木に預けた体を起こした。宴席に背を向けて園庭の奥へ歩き出す。
「もうすぐ七孔針に糸を通すよ」
思わず声を掛けたら、沈梅は振り向いて頷いた。
「ちょっと散歩したいだけです。すぐ戻りますよ。お腹も空いてますし、喉も乾いてますからね」