第1章 駆ける兎の話
「無論無断で奥宮を乱すような不心得を犯したりはしませんよ。天子の許しを頂いてここに居るのです」
お父様の?
姉妹たちがピリと緊張したのが伝わって来る。私の背筋も知らずと伸びた。
「昨日は思わぬ事態で兎速に最後の教導を示せませんでした。残念な事です。しかし幸い天子の思し召しで今日まで奥宮に留まる旨お許し頂けました。折しも今宵は七姐誕、晴の日柄故残念ながら学ぶ事は出来ませんが、兎速と別れを惜しみ祭事を楽しむようにとの仰せを拝しました次第」
先生の言葉に紫珠が口元を袖で隠して首を傾げる。
「本当にその程度の事で?また父上にはお珍しく随分とご寛容ななさりようね」
「兎速は土の者だから。特別なのでしょうよ」
遊華が面白くもなさそうに走りの水桃を突きながら口を挟んだ。
「騒ぐのは止めなさいよ。お父様がいいと言ったのなら、雷脚師はここに居ても構わないのよ。それくらい分かるでしょ、紫珠」
紫珠の顔色が変わった。何を生意気なという気焔を隠しもせず、腰を浮かせて遊華へ罵声を浴びせようとしたその時、貴白がすいと立ち上がった。
「行きますよ、紫珠。雷脚師の仰る通り今日は七姐誕、忙しい一日になります。よく休んで夜の祭事に備えましょう」
朝の間の口を出すがら、貴白が乳白色の扇の陰から低い呟きを洩らす。
「何が目当てか知れたものではありませんが、想う相手は泣き伏せておりましてよ?思うように七姐誕を楽しめればよろしいですわね」
雷脚師は穏やかに私を見下ろして微笑した。何も聞こえなかったみたいに。
「兎速も夜に備えて休みますか?」
「いいえ。必要ありません」
忙しいのは宮内の官使や女官たちだ。
殊に厨房は昼の仕度を終えてからてんてこ舞いになるだろう。そして様々な菓子の甘い香りが午下の宮内をふわふわといっぱいに満たすのだ。
園庭の四阿を彩楼に仕立て蓮池の前に緋色の毛氈を敷いて、菓子に水菓子、呑み物がたっぷり載った大卓が持ち出される。黃銅の七孔針と五色の糸。器用で心細やかになれるよう乞巧を願って月を仰ぎ、風に吹かれながら針穴に糸を通す。
「そうですか。ですがあなたは昨日の事もありますからね。その膝も含めて医官に診て貰いましょう」
そう言って雷脚師は顎を撫でた。
「むしろあなたこそ休むべきでしょうに。要らぬ騒ぎを起こして申し訳ない事でした」