第1章 駆ける兎の話
何に躓いたかと顔を上げると、色とりどりの絹糸で豪奢な刺繍を施された小さな沓が目に入った。つま先に珍珠が揺れている。綺麗で高価だけど馬鹿みたいな沓。誰が何をしたか、すぐにわかった。
宝珠の国の紫珠(ズーチュウ)だ。一番お金持ちで位高い十番目の姉。狼娘が気取り屋で手入れの悪い雌鶏と呼んでいたこの姉妹が、贅沢な足を突き出して私を引っ掛けたのだ。
紫珠のすぐ隣で陶器の国の貴白(グイバイ)が笑っている。紫珠と仲良しの、と言えば後はご察し。白い肌と陶器の目利きが自慢の三番目の姉。
「もうすぐ国に帰るというのに落ち着きのない事」
綺麗だけど冷たい貴白の声は、その肌と同じく白い陶器のようだとよく思う。綺麗で豊かで恵まれていて、なのにどうして意地悪をするんだろう。何の不満があって人を傷付けるんだろう。
「床に這い蹲って見苦しいわね。早くお立ちなさい、兎速」
「幾ら膝を着いてもここは宮中よ。土に触りたければ表に行きなさいな。ああ、でもあなたはもう国に帰るのだからそんな必要もないかしら。土は家の中も土なのでしょう?厭だわ。穢らわしい」
紫珠の甲高い声が貴白に追従する。
膝を払って唇を噛み締める。真っ赤にゆだっているのがわかるから顔が上げられない。
不意に俯けた視線の先で、紫珠の足がヒュッと引っ込んだ。
「兎速」
思いがけない人の声だ。ハッと顔が上がる。
「兎速、大事ありませんか。怪我でもしていたら大事です」
雷脚師が朝の間の口に立って厳しい顔をしている。
「先生」
膝がズキンとしたけど、大した痛みじゃないから怪我なんかしてないのはわかった。足早に傍らへ寄り添った先生は私の肘を取って、朝の間に揃う姉妹を見渡した。
卓をグルリと見回した後、改めて知香の居ない席に目を止める。
やっぱり…。
知香が気になるんだ。そう思って顔を見上げたら、ほんの一瞬、雷脚師の目が誰かに移った。誰を見たんだろう。席に居ない知香の次に、誰を?
訝しんでその目線の先を追おうとしたとき、貴白が冴え冴えと言い放った。
「誰の許しを貰ってこの刻限に奥宮にお出でです。如何な師とはいえ、学びの律を乱して宮に踏み込まれては他に示しがつきませんよ」
雷脚師の細い目がスッと開いた。私の肩に手を掛けて、後ろに下がらせる。