第1章 駆ける兎の話
暑いときは冷たく寒いときは熱く、知香が人を気遣うとき供するこの芳しい呑み物は知香を思わせる。甘いが控え目で、滋養がある。これを嫌う人はいないだろう。
「さあ。私は醴や黃酒の方が好きですが」
朝食を摂る朝の間で具合を聞いて来た沈梅に蜜水の話をしたら、こんな答えが返って来た。
「それはお酒でしょう、沈梅」
呆れて言うと沈梅はきょとんとして、何か可笑しいかという顔をした。
「お酒ですよ」
「狼娘みたいな事言うのね。沈梅は狼娘ともっと仲良くなれてたかも。いっぱい話してれば」
「仲良く出来ていたかどうかはわかりませんが、もっと話しておけば良かったとは思いますよ。狼娘だけではなく、あなたや知香、他の姉妹とも」
「…私は離宮するから無理だけど、他の姉妹とはこれからも話せるじゃない。そういう事、沈梅はもっとした方がいいと思う。そしたら学士連に認められて国に帰れるかも知れないよ」
「成る程」
「沈梅は中身を磨けって言われてるんでしょ?磨くって何かと擦れ合う事だもの。人が自分を磨こうと思ったら、人と擦れ合わないといけないんじゃない?ひとりで居たら駄目だよ」
給仕の女官が朝食を捧げて朝の間に入って来た。
沈梅はじっと私を見ているし、姉妹たちはひそひそ話を始めるし、決まり悪くなって席に着こうとしたら、沈梅がニコッと笑った。
「兎速は賢いですね。矢張りもっと話しておくべきでした」
明後日には離宮する私を捕まえてそんな事を言っても何にもならない。他の姉妹と仲良くしたらと言うと、沈梅は黙って笑ったまま、卓を回り込んで自分の席に着いた。
朝から沈梅と話し込むなんて珍しい真似をしたせいか、姉妹たちのひそひそ話や含み笑いがいつもよりしつこい朝食になった。こんな態度をとられるのは慣れているけれど今日はいつもよりあからさまだ。
だけどそれより、知香の姿が見えない事が気になって私は食が進まなかった。いつもの知香の席は空で、手付かずの朝食がぽつんと冷めるままに置かれている。
どうしたんだろう。知香も暑気中りした?でも朝、私が寝てる間に枕辺に蜜水を運んでくれたのは絶対に知香だ。私にはわかる。知香の気配が残っていたもの。
誰かに知香の事を聞きたいと思ったけれど、そんな雰囲気ではない。
女官に聞いてみようかと席を立ったら、何かに足を取られて転んでしまった。
「な…何…?」