第1章 駆ける兎の話
夜半、狼娘と月狼は人知れず奥宮を発った。
国へ帰るのも各国のやり方があり、盛大に祝い別れを惜しみながら去る者があれば、父母に挨拶すらせずに立ち去る者もある。そうした者は国で正式に成婚してから改めて香国に出向き、属国としての忠誠を誓い、香国を祝福してまた国へ帰る。剣戟の国は後者のようで、それは狼娘と月狼によく合ったやり方に見えた。
「…行ってしまいましたねえ…」
城壁の見張り部屋からこっそりふたりを見送った帰り、園庭の常夜燈の傍らに居た沈梅に声をかけられた。
奥宮から就寝前のお茶に興じる姉妹らの笑い声が聴こえて来る。
生国が豊かで位も気位も高い姉妹たちだけが参加出来るお茶会だ。
勿論兎速は参加した事がない。知香は知らないが、狼娘も多分この沈梅も。
位こそ低くはないが、学士の国は決して豊かではないと聞く。沈梅は下手をすれば女官より質素な格好をして、たったひとつ、首に下げた学問の誓いである掛守の他飾りものを身につけない。
兎速ですら髪と右小指に翡翠の兎を飾って、柔らかで色味のある衣裳を身につけているというのに。
今更ながら沈梅という長姉が気になった。
ここ二日、沈梅がよく話しかけてくるせいかも知れないし、狼娘が去って寂しくなったからかも知れない。
「降れば土砂降りとはよく言ったものです」
不躾な兎速の目を沈梅は無頓着に流した。
「あなたの離宮と狼娘の離宮…」
更に何か言いかけて、沈梅は口を噤んだ。
どうせ知香と雷脚師の事だろう。兎速は鼻白んで沈梅に背を向けた。
「寝る前に遊華に言って薫衣草を貰うといいですよ。枕に潜ませればよく眠れる。ゆっくり休みなさい」
気遣わしげな沈梅の声を振り切って、足早に奥宮を目指した。
遊華と話す気になんかなれない。まして頼み事などしたくもない。
綺麗に刈り揃えられた下生えを踏んで室へ戻る道すがら、昼、知香と雷脚師が並んで腰掛けていた長椅子を通りがかった。
水の匂いがする。
盛りの蓮池の上を蛍がちらちらと明滅しながら飛び交っていた。
蓮の蕾を腰帯にねじ込んで月狼と共に颯爽と去った狼娘。
蓮池のほとりで静かに手と手を重ね合わせていた雷脚師と知香。
国の婚約者を恋うる遊華は殊に好んで蓮を生ける。新婚の夫婦を言祝ぐ蓮。
立ち止まって見上げたら、空を埋め尽くす程の星が見えた。あまり星が凄くて月が消えている。