第1章 駆ける兎の話
「雷脚に知香を連れ出す気概はなかろうよ。…よしんばあったとしても、それはどの道無理な話だ。知香は私たちとは違う。ずっとここに居て相応しい婿がねを見つけ、父上が退位するまで飼い殺される定めにある」
飼い殺し?
驚いた。
狼娘はそういう目で知香を見ていたのか。だから知香に優しかった?そうなの?
私の視線に気付いた狼娘はにやりと笑って、肩を擦った。骨が外れたとかいう方の肩だろう。また顔を顰める。
「勘違いするな。私は知香を憐れんでいる訳じゃない」
綺麗な目が真っ直ぐ私の目を射抜いた。
「ただ好きなだけ。好きなだけだ」
やけに強い言い方にちょっと身が引けた。
狼娘は暫しじっと私の目を見据えてから、息を吐いて窓表へ視線を移した。
「月狼より知香が好き?」
馬鹿な質問だなとは思ったけれど、つい聞いてしまった。
狼娘はすぐに答えなかった。黙って夕暮れる園庭の一景を眺め、やがてゆるりと振り向いて頷く。
「当たり前だろう。…姉妹なのだから」
「…そう」
「勿論お前だって好きだ。お前は考えている事がすぐ表に出る。わかり易くていい」
褒められた気がしないけれど、誰かに好きだと言われたのは初めてなので嬉しかった。
知香と狼娘以外の姉妹とは殆ど話さないし、雷脚師は飽くまで師で、お父様やお母様と会う事もない。
私は寂しかったんだ。
今日遊華と話せた事でさえ、嬉しかった。奥宮を去る前に良い思い出が出来たとまで思ったのだから。
「変な顔をしているな。腐るな。素直で良いと褒めているんだ」
狼娘が立ち上がった。
「狼は大地を蹴って駆ける。土を穿って巣を作り、子を生して生きる。だから狼娘は何処にいてもお前の事を忘れないよ。私は土が好きだ」
鼻先をピンと弾かれた。
「私は土泥を穢れとは思わない。むしろ恵みと命の源と捉える。胸を張って国へ帰れ」
弾かれたものとは違う痛みが鼻に差して、私はボロボロ泣き出した。狼娘はちょっと迷ってから座り直し、私が泣き止むまで、背中を擦ってくれた。知らない歌を口ずさみながら。
これはきっと子守歌だ。
狼娘は良い母親になる。小さな子狼に添い寝して歌う狼娘が鮮やかに浮かんだ。
ずっと仲良しだった乱暴で綺麗で優しいこの姉に、絶対幸せになって欲しい。
泣きながら、心から思った。