第1章 駆ける兎の話
目が覚めたら、見慣れた天蓋が見えた。額がひんやり冷たい。やけに重たい頭を動かして窓表を透かし見たら、西日が差していた。
もう夕刻かと目を閉じ直し、ハッとする。
「…ラ…狼娘は…?」
呟いて体を起こす。額から濡れた綿布が滑り落ち、くらくらと目が回った。落ちた綿布から百合が匂い、その香りの主に思い当たって気持ちがザラついた。
「起き上がるな、馬鹿。お前、暑気中りを起こしたのだぞ。惰弱な」
聞き慣れた低くて通りのいい掠れ声。
「狼娘…」
寝台の傍らに寄せた椅子に、青痣も痛々しい狼娘が腰掛けている。綺麗に通った鼻筋に大きな膏薬を貼り付け、狼娘はうっすら笑っていた。
「そんな事で国でやっていけるのか?聞けば土は頑健な者が多いと言うじゃないか。すぐ倒れるようでは保つまいよ」
薄暮の中で可笑しそうに言う狼娘は穏やかで、無造作に長い赤毛や浅黒い肌、天藍石の瞳はいつも通りなのに何だか違う女のように見えた。
「私は国に帰るよ」
膏薬の上から鼻を撫で、痛みに顔を顰めて狼娘は素っ気なく告げた。
「まさかお前より先に奥宮を出る事になるとは思わなかったな」
「何時立つの?」
不意に不安で仕方なくなって、骨張った狼娘の手を握る。骨太で大きな手は乾いて温かだ。
「もう行くんだ。月狼が待っている」
力強く握り返してくれた手が、静かに離れる。
「馬を飛ばして今夜中に国へ帰る。明日には婚儀を成して月狼と私は夫婦になる」
「あの人でいいの?」
小声で聞くと狼娘が声を立てて笑った。
「良いも悪いもあるものか。見ただろう?あれは私より強い男だ。是非があろう筈がない」
剣戟の国は強くて美しい女王を戴く事になる。月狼もきっと良い王になるのだろう。そう思っても涙が零れた。
「行かないでよ狼娘。せめて私が行くまでは行かないで」
「馬鹿。泣くな。これきり会えない訳ではないんだぞ」
でも明日起きたら狼娘は居ないんでしょ?それが厭なんだ。厭だ。
「…知香と雷脚師、な…」
不意にぽつりと狼娘が呟いた。
ぐっと喉が詰まる。厭だ。
「見なかった事にしておけ」
そんな事出来ない。見てしまったのだから考えてしまうし、そうすればますますなかった事になんか出来ない。