第1章 駆ける兎の話
「縁起のものなら今の時節、蓮の花でしょうね。新婚の夫婦に贈る花ですし、園庭の蓮は今が盛りですよ」
噂をすれば影が差す。
呑気な声に遊華と振り返ったらば、案の定沈梅が居た。
「狼娘の国は事の運びが速い。贈り物するならば急ぎなさい。狼娘は今夕にも奥宮を出るかも知れない。寂しくなります」
何時から話を聞いていたのか、のんびりと頬を撫でながら沈梅は本当にちょっと寂しそうな顔をしていた。
「櫛の歯の欠けるように姉妹が去るのを見送るのは心許ない事ですね」
遊華と顔が見合った。頷き合う。
「だったら海月みたいにふらふらしてないで自分を磨いたらいいんじゃないの?アンタもう少ししっかりしないと、本当に死ぬ迄国に帰れなくてよ。いい歳して恥ずかしくないの?」
「毎年試験に来る国の学士連に学問は程々でいいから兎に角中身を磨けと言われてるんじゃなかった?ぼんやりしてないで励んだらいいのに」
初めて遊華と意見が合った気がする。
「御尤も」
良いも悪いも何ひとつ気にする様でもなく、朗らかに笑って立ち去りかけた沈梅がふと足を止めた。
「何?どうかして?」
つけつけと聞く遊華を顧みて、沈梅は口先に指を立てて黙るように目配せ、視線を動かした。香椿の陰からその目の先を追うと、意外な景色が見えた。
知香が園庭の長椅子に腰掛けている。四阿の卓と同じ大理石で出来たそれは、夏場はひんやりと座り心地がいい。けれど、人一倍土泥を避ける知香が園庭に居て、しかも足元に敷布も敷かず腰を据えているのは珍しい事だった。
その上知香はひとりではなかった。
仔猫一匹分程の間をとって、同じ長椅子に雷脚師が座っている。
知香は雷脚師の教え子ではない。顔見知りではあれど親しみ合う程の仲ではない筈だ。
なのにふたりの手が長椅子の上で触れ合っていた。仔猫一匹分の隙間で重ね合わされた手は、穏やかな確信に満ちて互いを意識したまま動かない。
ふたりは言葉を交わすでもなく、ただ黙って並んで座ったまま、園庭を静かに眺めていた。
桃の青葉が二人の上に濃い影を落としている。池で鯉魚が跳ねた。密やかな水音に二人の顔が幽かに笑み綻ぶ。
息を吸うのも吐くのも忘れていた。そう言えば今日は雷脚師と学ぶ最後の日だったと思い出す。
その途端に目の前が白くチカチカして、真っ暗になった。