第10章 ありふれた日常を
「失礼します」
開けた扉の先、大きな窓を背に顔を伏せるその人。
「ナナバ、君か」
ペンが止まることはない。
顔を上げることも、ない。
何故なら、声だけで分かる。
間違えようがない。他の誰でもない彼女だから。
「……、…よし」
サインを終え、判を押す。
ふっと息を吐いては机上へ注いでいた視線をあげれば、その目元からは鋭さが消え、一瞬にして破顔した。
「ん!一緒だったんだね!」
「っ!!」
目が合えば、より一層見開かれるその大きな瞳。
「ん?」
「…、…っ…」
「??」
「…ママ…、…っ、……」
くぐもった声で母を呼ぶ。
何を言わんとしているかは、揺れる空色から容易に感じ取れた。
「…今日だけ、特別だよ?」
「!!」
ナナバがゆっくりと膝をつけば、爪先がついた瞬間可愛らしい歩幅で走り出す。
迷うことなく真っ直ぐに。
世界で一番安全な、その場所へ。
「パパ!!!」
今日一番の大きな声。
執務机を回り込み、エルヴィンの膝にしっかと抱きつく。
「はは、どうしたんだい?
随分と熱烈じゃないか」
「…エルヴィンは仕事中だからって、そう伝えてたんだ」
「成程、我慢していたのか。
いい子だったね。よしよし…」
大きな手で抱き上げられ、膝上に下される。
ここが彼女の定位置。一番の、お気に入り。
「パパ、おしごとおつかれさまです!」
「ああ、有り難う」
やや舌足らずだが、心からの労いの言葉にゆっくりと頷き返す。
ほんの少し、高さの違うところで微笑みあう空色。
父子揃いの、澄んだ空色。
「パパ…」
安心して気が抜けたのか、今度は泣きそうな顔でエルヴィンの胸にすがりつく。
「よっぽど会いたかったみたいだね」
実の所、ナナバは連日子連れ出勤をしている。
当然同じ敷地内にいるのだが、だからこそ会えない。
『パパ…』
『お仕事だからね、終わるまではだめだよ』
『……うん』
(ちょっと我慢させすぎてしまったかな…)