第7章 夜に陽炎
『…○○』
この上なく愛しいものに呼びかけるように、男は呟いた。
『大丈夫だ。お前は必ずたどり着ける。お前のあるべき場所に、どれほど遠く離れても、例え何があっても。――俺の『魂』が導くだろう』
というと、もう一度○○の髪に唇を付けた。
今度は何かを刻み込むように。短く強く。
そして男は、○○の身体を突き放した。
『行くんだ』
――突然、外から時にそぐわぬ騒ぎの声が飛び込んできた。
男は舌打ちをして窓辺に駆け寄る。その時初めて、○○は男の手に古い片手剣が握られていることに気付いた。
あの剣を最後に見たのはいつだったろう。かつて剣と共に生きていた男がそれを捨ててずいぶん経ったはずだ。それはもう思い出せないほど遠い昔のこと――
感傷に浸る間もなかった。○○の目にも、月明りに照らされた夜の森の向こうが写る。
木々の合間をかすめて、押し寄せる赤い光の揺らめき。自然の明りではない。それは、はっきりとした意思をもって灯された光――松明の火だった。
○○は、男の背に呼び掛けようとする。が、声が出ない。
「行け!○○!二度と戻るな!」
男は、突然ハッキリとした声音で叫んだ。
――次の瞬間、○○の周囲から全てが消えた。
完全な虚無にただ一人放り出される。
無明の闇はどこまでも広がり、前後左右の感覚さえ唐突に喪われた。○○は、もつれながらも足を前に出す。
――行け
――逃げろ
――どこまでも、決して戻らぬように――
闇の中、こだますようなあの声が○○の背を押し、足を支えた。
ゆっくりと一足が宙を掻いて進むごとに、○○の身体から何かとても大切なものが消えていく。
それは自分の内側から、ほとんど無理に、もぎ取られるように。
一歩また一歩と、○○は『何か』を確実に喪っていった。