第7章 夜に陽炎
男は、首を左右に振ると、
『すまない、○○』
突然、○○の首の後ろをもって自らの身体に引き寄せた。
長い髪を素早く片手で束ね、肩口のところから小刀でばさりと切り落とすと、
『!!』
その瞬間、稲妻のような衝撃が○○の背中から全身を貫いた。
それははっきりとした予感――何かとてつもない、途方もない、大変な事態がわが身に起こったのだ、という――
髪は音を立てて床に落ち、男は急いでそれをまとめ、持っていた布袋に乱暴に詰める。
今まで○○が眠っていた寝台にその袋を押し込み、何事か早口に、呪文らしき言葉をつぶやいた。
『えっ!』
すると、寝台の上には、もう一人の○○の姿が出現した。
顔も体も今さっきまで眠っていた形そのまま、鏡で映したようだ。
触れると確かな感触があるが、布や木のように生気がない――恐ろしく精巧な作り物だ。
『こ、れって…』
言葉を失う○○。男はその両肩に手を置くと、一言一言ハッキリと告げた。
『暫くはこれで誤魔化せるだろう。が、長くはもたん。いいか、○○。今すぐここを出て逃げろ。何があっても、絶対に引き返すな。足の向く先に、ずっとずっと走り続けろ』
フードに覆われた顔は、ほとんどが闇に沈んで見ることができない。
『なにかあったの』
尋ねる○○に、男はかぶりを振った。
『話している時間はないんだ』
と、男は自分の纏っていたマントを取り、○○の身体を包んだ。
ふっと、懐かしい香りが鼻先をかすめた。
優しく柔らかく、温かい香りだった。
ほとんど場違いにすら感じるその温もりが、○○の心にそっと寄り添い囁きかけた。
――ああ、私はこれから、この人を失うのだ
途端に、○○の目じりに涙が滲んだ。
『いやだ…』
『わがままを言わないでくれ、○○』
男は、○○を抱き寄せた。
○○が顔を上げると、男は口の端を持ち上げてニッと笑った。
懐かしさよりももっと熱い感情が込み上げる。
思慕、憧憬、そして何よりも――
男は黙って、○○の額にかかった髪に口づけした。
深く長い、永遠のような口づけだった。