第7章 夜に陽炎
『○○。○○。』
暗闇の中に、呼び声が響く。
誰のものか、ただとても懐かしい声が、しきりと○○に呼び掛けている。
遠くから、あるいは極々近くから。距離も時間も判然としない中、
『○○』
何度目かの呼びかけで、○○はようやく目覚めた。
身を起こし、辺りを見回す。窓から差し込む月の光の高さで、払暁にはまだ遠い真夜中であることが分かった。
古びたどこかの部屋の中である。
よく言えば質素、何もかもが小作りな、ままごとめいた一室だった。
ささやかな本棚の隣にはちんまりとした暖炉。窓際の小卓には野花が飾られ、壁には手織りの飾り布が掛かっている。そうした各所に滲む生活の痕跡に、一つ一つ強烈な懐かしさが沁みついていた。
『○○、すぐに支度をするんだ』
もう一度声が掛かった。今度ははっきり、寝台の傍らから。声は若くも老いてもいない。ただ低く硬かった。
視線を遣るとそこには、見慣れぬ旅装の男が一人立っている。
厚手のマントに、顔のほとんどを覆うフード。背は高く、体形もがっちりとたくましい。フードの隙間から、編み込んだ黒髪が垂れていた。
男は○○の手を取ると、
『早く。時間がない。』
ひどく慌てた様子で、言った。
『どうしたの』
○○が尋ねると男は辺りを忙しなく見まわし、そして
『今すぐにここを出なければ』
○○の身体を両手で寝台から引き起こした。
途端、薄紗をまとっただけの○○の肌に、ざらりとした感触が絡んだ。シーツとは明らかに違う質感。
――髪だ。
○○は息を飲んだ。
恐ろしく長い、生まれてから一度も刃を知らない、艶めく絹のような黒髪だった。
それが自分の頭からつま先まで、ほとんどとぐろを巻かんばかりに伸びている。
○○はただただ、戸惑った。
起き抜けの出来事の異常さに、頭がまともについていかない。