第7章 夜に陽炎
逃げるように宿に戻ると、部屋では衣装を改めたシルビアが待っていた。
「あら、○○。ちょうどよかったわ」
今出ようとしたところなのよ、と襟を正す彼は珍しく、いかにも仕立てのいい薄緑のスーツに身を包んでいる。思わず目を丸くする○○に、
「やーね、見惚れちゃった?」
おどけたように手を振って見せた。
「え、あ、うん…」
「どう?素敵でしょ!似合うと思わない?」
ショーで使うお衣装ちゃんが届いたのよん、とその場でシルビアは、くるりと華麗なターンを披露する。
「ほんとのお披露目は今晩の打ち合わせだったんだけど…やっぱり最初に○○に見せたくって着ちゃったの!」
しかし○○はただ、
「すごい、ね」
気の抜けた返事を返すばかりだった。
――言葉でさえ、思うようにならない。
胸が押しつぶされそうになる。
「○○?どうしたの?」
シルビアも、○○の様子に怪訝な顔を向けた。不安げに、纏ったスーツに視線を送ると、
「…やっぱり変かしら?」
「そんなことないよ!」
慌てて○○は、両手を振って否定する。
「そんなことない、そう、すごく、その…」
――かっこいいよ。一番に見られて嬉しい。誰よりも似合ってる。まるで王子様みたい。
思いついた言葉は、口から出る前にすべて砕けて消えた。
どのセリフも、みんな安っぽくて白々しいような気がした。
「…素敵だよ」
ほとんど涙ぐみそうになって、○○はやっとそれだけを告げた。
――見るだけで分かってしまう。言葉なんていらない。
○○の前に立ったシルビアの姿は、ささやかな宿の照明の下でさえ隠しようもなく輝いている。
――彼の立つ世界は、見えない一本線の遥か彼方。
「…○○、どうしたのよ」
「…なんでもない」
「何でもないわけないじゃない。真っ青よ。顔」
「大丈夫だから」
――こちらに伸びてきたシルビアの手を、○○は反射的に払ってしまった。