第60章 穏やかな日常
例えば絶大な力が手に入ったとして、横暴にやりたい放題他へ振るい傷付ければ、また振るうに決まってるという固定観念がつく。
そして孤立し、たとえ助ける為に幾度使ったとしても前例から誰も寄り付かなくなる。
傷付け殺すことは…どんな理由や経緯があったとしても悪にしかなり得ない。
だが何が傷となるかは…やはり一人一人と向き合わねばわからない。
知らないままでは意図せず傷付けてしまう。
何も出来なくなる。
そう結論付けるのはやや早急だ。
知らねば始まらない。
その心意気で取り組めばいいだけのこと。
知ろうとし、歩み寄り、向き合い、そうすることで初めて縁が紡がれる。
相手が嫌がって離れたとしても、努力した時間は無くならない。
経験となり、そういう感性を抱く者として学びとなる。糧となる。
そして次へまた繋げていく…
際限のない、果ての無い学びの為の道のり…
器を何処まで引き上げられるか、どこまで高められるか…
それもどれだけ持続して頑張れるか、壊れない為に休むこともきちんと取れるかも込みで試されている。
神様とは怖いものなのかもしれない。
全てを知り把握し…考えも思いもしない形で結び付ける。
勧善懲悪とは聞こえはいい、が…
その実態は悪とされる立場にある者の葛藤や悩みの果ての言動を蔑ろにする行為にもなり兼ねない。
だからこそ…ケイトはああ言ったのだろう。
悪人の為にも、される人が乗り越える力を付ける為にも…
たとえ助けるとしても、それすらも織り込み済みな気すらするけれど…ケイトの言うことにも一理ある。
お互い…僕も、ケイトも…助けが無かったからこそ強く在ろうと立ち上がった。
助ける為に、強くなろうとできた。
たとえ――死にたくなる程の苦境に相まみえ続けたとしても
それら無くしては…ここまでこれなかった、至れなかった……
今までの全てが、越えて己の力とする為に、神から『愛』として与えられた『試練』そのものなのだから――
ケイトの言葉はそのことをも示唆しようとしていた。
フレイヤが恋に落ちたことは、本人曰くケイト以外では皆無。
フレイヤの恋心を最初に撃ち抜いた人←240,241ページ参照
英雄譚で残されるだけはある…
そう考えながらケイトを見つめると目が合い、即座に唇を重ねられた。