第4章 牡蠣殻磯辺
鬼鮫もまた、深水自身から託された書き付けを持つことを牡蠣殻は知らない。知らないが、知っていたとしても牡蠣殻は鬼鮫を疑うことはなかっただろう。鬼鮫を好ましく思うからではない。鬼鮫が簡単に取り引きするような人間ではないと見定めているからだ。狂暴で胡乱に見えて、彼は慎重居士だ。
しかし対して波平はと言えば、渉外を兼ねた里長という今の彼の立場を鑑みるに、取り引きはありふれた行為に思える。更に彼は元から良くも悪くも意外な手を打つところがある。生前深水が浮薄なと評したこともある。牡蠣殻自身、波平を浮薄とは思わないが、捉えどころのない真似をする傾向があるのは認めざるを得ない。
あの書き付けは持ち主を過てば危険なものになる。
サソリは決して穏健な人間ではない。
「……あれ?マズイんじゃないのか、もしかしてこれは」
しかし波平が何故、敢えてサソリと取り引きをする必要がある?磯はビンゴブッカーとやり取りするような裏商売に手を出しているのだろうか。ー例えば、草の外道薬餌のようなものを使って?
まさか。
ふと波平の周りに思いを巡らす。
頭の上がらない阿古也と目の上のたんこぶ且つ善き助言者であった長老連が草に去り、口うるさい藻裾と容赦ない牡蠣殻が里を抜け、身近に適当な相談役や補佐がいない。今の磯には巧者は実質、波平の他ない。
その苦労は想像がついていたが、裏を返せば磯は今波平の独壇場で動いていることになる。そこまで考えが及んでいなかった。
彼を諌める者も、止める者も今の磯にはいないのだ。
思えば一平を引き取るというのも突飛なことだ。阿古也は波平の姉ではあるが、実質磯を放逐した身、重ねて磯では禁忌に近い草に通じた裏切り者である。幾ら片親が恩師の深水であろうと、その阿古也が産んだ子を、増して草で産まれた子を引き取ることなど、散開前の磯ではあり得たろうか。そこまでして一平を引き取る理由がわからない。
「…まあ…」
何であろうと、牡蠣殻は一平を守るのみだ。その一事の為に鬼鮫からまた、離れたのだから。