第8章 年納め
磯辺と聞いた一平が逃がさないぞとばかりにべったり寄りかかっていたヒナタから身を起こした。
「その前にヒナタさんを家へ送って行くんだぞ。いいか」
どれくらい話を理解しているのか、兎に角波平の言い付けに一平は素直に頷く。そんな一平へ波平が口の端に笑みらしきものを浮かべた。が、微かな笑みはすぐに消え失せ、波平はそれが常の茫洋とした顔でヒナタに甘酒をすすめた。
「年の瀬においで下さるお客は来る年の吉兆を運ぶと言います。今日はお越しい頂きありがとうございました」
「…いえ…」
波平の礼にヒナタの頬が赤くなった。丁寧な物言いに照れてしまったらしい。掌に包んだ湯呑みを膝の上で落ち着きなく撫で擦る。
「そんな…私こそありがとうございました」
「あまりお話も出来ず残念なことでしたが」
傍らに腰を据えて泰然としている伊草をちらりと見、波平は背筋を伸ばしてヒナタに軽く頭を下げた。
「これに懲りずまた薬事場にお運び下さると有難い。来年もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします」
ヒナタが赤い顔にはにかんだ笑みを浮かべる。
よろしくね、と、頬を優しくつままれた一平がにこついてヒナタの腕に抱き付いた。
「…その調子のよさは誰に似たんだ…」
「そりゃ破波じゃろ。ありゃ男振りも良ければ調子も良い好男子だったもの…」
呆れた波平の呟きへ釣られたように、伊草が何気なく言った。
「破波?」
波平の眉が上がって半眼の瞼が開く。思いがけなく父の名を耳にした。
「父と相識があるのか」
不穏で刺のある声が伊草に問う。
「話は後々。さ、さ、遅くなったらいかんから、餅は土産に包んで貰わんかえ?家で焼き直して食べたらいいわいな」
波平の呼び掛けを手を振って払い、伊草はヒナタを急かして立ち上がった。炯々と視線を当てる波平に何食わぬ様子で笑いかけ、一平を抱き上げる。
「磯の振る舞いは年明けに埋め合わせて貰おう、な。その時はわちもご相伴に預かろうかの。何?甘酒が呑みきれん?なら残りはわちが貰おうかの。ん?急かすから呑みきれん?何の何の、甘酒は熱いうちじゃ。どれ。わちに貸してみやれ」
ヒナタから湯呑みを取り上げて中を干すと、伊草はにこにこしながらヒナタの手を取って立ち上がらせた。
「他里の祭事は目新しくていいもんだの。年明けも、楽しみ楽しみ」