第6章 年の瀬、花屋の二階で
「あなたの意向がどうあろうと一向に構いませんが、如何せん時間がありません。今私がここにいるのは尋常なことではありませんからね」
「身バレしたくないなら、あまり人をじろじろ見ないことですよ。貴方の視線はもう物理的に痛いくらいなもんですから」
意外なことを言われて、鬼鮫は顔を上げた。
「気付いてたんですか。…成長しましたねぇ…」
出会いのときは幾ら睨もうともまるで意に介さずにいた牡蠣殻なのに。
鬼鮫は鼻を鳴らして牡蠣殻を見下ろした。じっと見上げて来る真黒い目が風にそよぐ柳の風情で笑っている。
「本当に成長したと思いますか?相手が貴方だからというだけのことかも知れないのに?」
「ふ。また珍しく殊勝なことを言う。余程疲れてるんですかね。出会い頭の抱擁も含めて今日のあなたには驚かされますよ」
「…物忘れは人間が生きていくのにあたって非常に大切なシステムなんですよ?お願いですから忘れて下さい。ホントあれは私じゃなかった。うん。あれは私じゃない」
「あなたは忘れたらいい。私は忘れませんがね」
「それじゃ意味ないんですよ。わからない人だな」
「忘れませんよ」
牡蠣殻の頭頂部に手をのせて、鬼鮫は苦笑いを思わせる妙な表情を浮かべた。眉尻を下げ片口を上げて、諦めているのか面白がっているのか俄に判じかねる、鬼鮫には珍しい曖昧な表情だ。が、生憎牡蠣殻は鬼鮫のそんな様子に気付いていない。
「…消えたい…」
「失せようとしたらこの晦日が命日になりますよ。年越しに死なれては周りも迷惑この上ないですね」
「また厭なこと言いますね。そういうことはどうしようもないでしょう。言いたいことばっかり言ってちゃ駄目ですよ。歯に衣を着せないのも度を越すと馬鹿みたいに見えますからね」
「他所の話をしてるんじゃありません。あなたの話をしてるんですよ。客分の身の上でお世話になっている主家に迷惑をかけるつもりですか?自分が恥ずかしいというだけの理由で?」
「いいですか、干柿さん。貴方が。はいこれ大事だからもう一回いいますよ。"貴方"が!穴があったら入りたくなってる人間にちょっとでも動いたら速攻で殺すみたいなおかしなことを言い出すから迷惑な話になっちゃってるんですよ。貴方がここで私をどうこうしなきゃ誰にも迷惑がかからないまま無事新年を迎えられるんですから。おわかり頂けます?」