第6章 年の瀬、花屋の二階で
「そうですね。今のうちせいぜい笑っておくことにしましょう。明日から私も仕事ですから」
留めた鎖を盆の窪に落とし指輪を鳩尾へ滑り込ませると、鬼鮫は徳利首をすいと上げた。それからやおら牡蠣殻の座る椅子の背に手をかけてぐるりと向きを変える。
「いけませんよ、干柿さん。よそのうちの床を傷めるようなことをしちゃ…」
床を見下ろして物申した牡蠣殻の脇の下に手を差し入れて、鬼鮫はその体をぐいと持ち上げた。
「……うん?何ですか、これは?」
鬼鮫を見下ろす格好でぶら下がった牡蠣殻が、毒気を抜かれたような顔でぼんやり首を傾げる。
「ほう。もしかして体を鍛えている?」
持ち上げた牡蠣殻の体が思いの外持ち重りしたのに、鬼鮫はにやりと笑った。以前より筋肉がついているように思う。
「はぁ。一応体力の回復という名目で体術のプロだか体力馬鹿だか兎に角凄い人に付いて折々体は動かしてます。それを勘定に入れるのならば鍛えていなくもないかも知れません。実に情熱的に無理しない程度の無理をさせて頂いてますよ」
嫌いなものを無理に食べさせられたような顔をして、牡蠣殻が苦々しげに答える。
「それはいいですね。お陰で面白くなりそうです」
「…面白くなりそうですか…」
牡蠣殻は鬼鮫の目を見て黒い瞳を物思いに曇らせた。
「はぁ。成る程。良いお仕事を頂いたようですね」
「そこは明言を避けましょう。守秘義務がありますからね」
「口は災いの元。蛙は口から呑まれる。雉も鳴かずば撃たれませんで物言えば唇寒し秋の風ですよ。何処から何が漏れ出るか分かったものではありません。こんなところで私と話してる場合じゃないんじゃないですか」
「今は仕事中じゃありませんからね。プライベートで何処へ行こうが何をしようが、私の自由ですよ」
「プライベート?」
「プライベート」
床に下ろした牡蠣殻を抱き締め、抱き返して来る手の感触に涌き出る深い息を吐かずに呑み込み、鬼鮫は牡蠣殻の頭に鼻を埋めた。
煙草が匂う。禁煙はしていないようだ。古びた紙の匂い、松明草の香り、薬臭い乾いた薬草の鄙びた匂いと、何時も漂わせていた血の代わりに小さな子供の乳臭い匂い。
今まで感じたことのない類いの苛立ちが僅かに胸を刺す。
「…このままこの前の続きと行きたいところですが」
「よそ様のうちで痴態を晒す気はありませんよ、私は」