第5章 つらくて、よかった
「ヒッ…!」
有は反射的に扉を閉めた。
扉の向こうから「有…」と名前を呼ばれる。
いつも冷静な有だが、さすがに動転を抑えきれなかった。
「なっ…なん、そこに…、いつから。えっまさか昨日から?ムリムリムリ怖い怖すぎる!」
サスペンス展開に怯える有に、秋也も慌てて声を上げた。
「ちっ違う、違うぞ有!国道の方に漫画喫茶あるだろ、あそこに泊まってたんだよ。今時の漫喫ってシャワーとかあるんだな、助かったよ、ハハ…。そ、そろそろ講義に行く時間だろう?有と一緒に行こうと思って、迎えにきたんだ。なあ、有…開けてくれるか」
数秒後、有がギイと玄関扉を開けた。
秋也はホッとした表情を浮かべた。もしかしたら会ってくれないかもしれないと思っていたのだ。
「廊下で話すと近所迷惑だから…。入って。まだ講義まで時間あるし」
いつものニコニコ顔ではなく、陰鬱な表情で、有は秋也を家に通した。
「おお、家の中はあたたかいなあ」
気まずい雰囲気を和らげようとでも思ったのか、秋也は明るい声で言った。
有がそれを聞いて秋也の顔を見つめる。鼻の頭と耳が、冷え切ったように真っ赤に染まっていた。
「…何分間、外で待ってたの。それとも、何時間?」
「あ、別に気を使ってくれなくていいぞ。そういうつもりで言った訳じゃない」
有はハァとため息をつき、
「気づいてあげられなくて、ごめんね。私、鈍感だから」
と言った。いら立ちが抑えられず、イヤミのこもった語調になる。
そんな風にみじめっぽく待たれたら、まるで私の方が悪いことをしたみたいじゃない。頼んだわけでもないのに、勝手に待たれて、ほんと迷惑。だいたい近所の人に見られて変な噂を立てられたらどうするの。本当に、気の回らない人だ。何も考えてないんだろう。私に会うってこと以外何も考えてない…
そこまで思考してから、有はジッと秋也を見つめた。
私に会うことしか考えないで、昨日からずっと家にも帰らず、ずっとこの人は、私のことだけを思って…。