【松】終身名誉班長とマフィア幹部と汚職警官から逃げたいんです
第1章 終身名誉班長一松
何があったかは覚えていない。思い出したくない。
人生の落とし穴というのは意外にそこここにあって、私の家は『運悪く』、そこに落ちてしまったのだ。
あとは坂道の石みたいに転がり落ちるだけ。
強制退学、家財売却、土地競売、一家離散――人身売買。
私は身元を証明する物を全て剥奪、処分され、マフィアに売られた。
これは何を意味するか。
『逃げても、おまえに行き先はない』
『ある日消えても誰も調べない』
『どう扱ってもかまわない』
――という存在に堕とされたということだ。
家族にはあれ以来、会っていない。今頃、どこでどうしているのだろう。
生きてすらいないかもしれない。
確かなのは、私は消えた側の人間。
家族や友達には、もう二度と会うことがないということ。
私はマフィアが所有する、このブラック工場に売られた。
この件で出来た、莫大な借金を返すために。
でも、私は容姿はさておき若い女だ。
ブラック工場より、夜の世界に売り飛ばすものでは?と最初は疑問に思った。
これに関しては、どうも上の方で手違いがあったようだ。
でも心底から安堵したのも最初の三日だけ。
三日目のあの夜、班長に呼び出され……この話も思い出したくない。
あとは流れてくるベルトコンベアのせいで、覚えてない。終わりのない労働の中で、思い出も家族の顔も名前も全部忘れてしまった。
私は独りぼっちだ。
でも誰に頼ろうとも思わない。
ただ、生きていければいい。
なのに――。
「はあ……」
私はペットボトルの最後の水を飲み、少しでも休息を取りたくて、ずるずると床に座り込む。
床はべとべとで汚い。皮脂やフケ、食べかす、なぜか排泄物の匂いまで混ざって、凄まじい状態だ。
でも椅子や休憩室なんて無いから、ここで休むしか無い。
見慣れた工場の鉄骨を見上げ、ゴウンゴウンと大音量で響く、機械の重低音を聞く。
今日は何時に終わるんだろう。
そもそも今は何時で、私はいつから働いてるんだろう。
最後に食べたのはいつ? 何を食べた? タコ部屋のベッドで寝たのはいつだろう。
思い出せない。ここにいると、頭の中が馬鹿になる。
ぼんやりと鈍く光る蛍光灯を見つめていると、周囲がざわついた。
『班長』『班長だ』『松野班長だ』