第4章 閑話いちー青葉城西
バレーは小さい頃から始めた。
従兄弟が2人ともバレーをやっていたから、というのが大きな理由だったと思う。
小学校に上がると、クラブチームにも入った。
光ちゃんが入っていた所と同じ所。
その頃は楽しかった。
練習すればする程上手になったから。
益々私はバレーにのめり込んだ。
ひたすら練習し続けて、中学に上がる前に全日本ユースに選ばれた。
両親も光ちゃんも喜んでくれた。
もちろん、繋心や烏養のじいちゃんも。
でも、ユースの方では違った。
「なんで小学生なんかが」「どうせコネか何かでしょ」
小さな陰口だったのが、だんだんと大きくなっていった。
トスを上げてくれない。態と足を引っ掛ける。
監督やコーチにバレないように、陰湿なやり方だった。
それでも私は諦めなかった。
試合に出たかったから。
周りの誰よりも練習した。
中学1年の時、ある試合で私がスタメンで入り、活躍して勝利した。
そして、それから私がレギュラーに定着してからが始まりだった。
陰湿だったイジメが、暴力に変わった。
殴る蹴るは当たり前。ただバレないように見える場所を避けて。
一度、倒れた私の膝を思いっきり踏まれた。
流石に監督に告げようとしたのに、オーバーワークだと言って心配するフリをした周りを信じて、私を見てはくれなかった。
そして、告げ口をしようとした私を周りは許さなかった。
痛めた膝にボールをぶつけ、蹴り、終いにはポールで殴りつけた。
その時の私の悲鳴でコーチが駆けつけ、その場に居たイジメの主犯格は処罰されたけど。
私の膝は動かなくなった。
そこから私は全てを失くした。
両親は車で病院に駆けつける途中で、居眠り運転のトラックと衝突して亡くなった。
私のことを応援すると言ってくれていた、仲間だと思っていた中学の部活のチームメイトも、手のひらを返したように言葉の暴力を重ねた。
「もう優希がいる意味ない」「怪我したらただのお荷物」「可哀想だと思われたいだけ」「いっそのこと辞めてくれればいいのに」
それまで必死で治そうと辛いリハビリをしていたのに、私の帰る場所は無くなった。
暫く光ちゃんの家でお世話になったけど、辛い事しかない東京から早く離れたくて、バレーから離れたくて、日常生活に支障がなくなるまでリハビリをした後すぐに繋心のいる宮城にやって来た。