第9章 I can smell.
その日の夜ーーー
(特別な匂い、か…)
エルヴィンは無意識に首筋を摩りながら、ぼんやりと書き物をしていた。
コンコン
と、控えめなノックが聞こえ、瞬時に意識を塗り替える。
「開いている」
「失礼します」
背筋をぴんと伸ばして入室してきたのは、ナナバ。
「珍しいな。何かあったか?」
「あ、いえ、すみません。ミケから紅茶がいただけると聞いて…ご迷惑でしたか?」
「あぁ、それならここに…。すまない、珍しいだなんて言ってしまって」
珍しい、とは、あながち間違いではない。
付き合いは長いが直属の上司と部下ではない為、直に接する機会があまりないのが現状だ。
「いえいえ」
しかし、エルヴィンの言葉を気にするそぶりもなく、ナナバはしゃがみ込んでは紅茶をしげしげとながめ始める。
「どれがいいかなぁ…紅茶は詳しくないし…。団長のお勧めってありますか?」
「………」
「団長…?」
無言のエルヴィンが見つめる先、そこには振り返ったナナバの姿。
そして彼の視線は、彼女の細い首筋に吸い寄せられていた。
「どうかなさいましたか?」
「…あ、いや、匂いが」
しまったと気付いた時には、もう遅かった。
ナナバの口から『匂い…?』と小さく漏れ聞こえてきたからだ。
「もしかして……、ミケの匂い、かな?」
こちらもぽつりと呟かれた一言に、エルヴィンは小さく反応する。
「あ、あぁ、昼間にそんな話になってね」
「ミケがいい匂い、という話でしょう?」
「わかるか、流石だな…」
「カリンにそう言われてから、ずっと気にしてますからね」
『あ、これデザイン可愛い』とナナバは一つの缶を手に取り、立ち上がる。
「……そういえば、団長は香水、つけてましたよね」
「あぁ。毎日ではないがね」
「嗅いでみてもいいですか?」
突拍子もない問いかけ。
ナナバは屈託のない笑顔を浮かべては、エルヴィンを見つめている。
(あぁ、こんな風に……、昔はもっと気安かった)
お互いに、一兵だった頃から面識がある。勿論、その頃は全てにおいて対等だった。
…だが今は、そうはいかない。
(壁があるわけではないが…些か距離を感じるな…)
しかしエルヴィンは団長、ナナバはミケの補佐こそすれど、役職のない兵士。致し方のないことだった。