第5章 ワンカラットエレジー/綾部
「無事でよかった」
まるで目覆いのように包帯の巻かれたぼくの顔を、さんは撫でた。
眉の稜線をなぞるように、柔らかな指が瞼を滑る。こめかみを撫で、掌は耳を優しく包んだ。もっと撫でてほしい、というおもいとともに、うっとりと意識は沈んでゆく。
この寝床のうえで、しかしぼくの意識はある山岳へと漂っていった。
肌に感じるのはもはやさんの手ではなく、霧雨のような冷たい水飛沫だ。
生きものの気配に満ちた山の音と、調和する渓流、ぼくはその響きに包まれる。
不意に、激しい水音とともに雨が降った。
おおきなものが流れから飛び出したのだ。そいつはこちらに親しげに近寄り、あ、とおもうとぼくはつぎの瞬間視界を失った。みずからが転倒するのを感じながら。
心地好い眠気にぼくは沈む。
「ぼくは意識がなかったけれど、先生がたが探しに来てくださったみたいです…斜堂先生が、瞼を切られて倒れている僕を見つけてくださいました…」
「鍛練にいったのね」
「ええ。試験の下見といったほうがいいですけど―――それで、いつのまにかしらない渓流を見つけていたんです。ぼくは龍に会いました」
「 … 」
枕元でさんは口ごもった。たんなる沈黙だったけれど、驚いている気配がわかる。
「瞼を切った、ではなくて、切られたといったわね、喜八郎」
「龍が近寄ってきた途端、視界がなくなってしまったんです…近寄ってきたといっても、なんとなくそう覚えているだけです…ぼくは視界が奪われるまえの景色を覚えていないから。
渓流にいたのは肌で覚えているのに、龍のすがたも、渓流の景観も、その渓流がどこにあったかも…目に見たことはなにも、思い出せないんです」
「視界といっしょに、見た景観も奪われちゃったのかもしれないわね」
「そんないいかた、やめてください…もう目が開かないみたいじゃないですか」
「龍って神さまでしょう。そんなひどいこと、するかしら」
「神さまだから、ですよ。ひとが目開きでなくなったらどれだけ困るかわかりようがないんです」