第6章 一億光年先の恋人/スピードワゴン
すでにふたりの衣服は霧雨で湿っている。おれがガキのころはまだ、こんなに四六時中、雨に降られたみたいにならなかったとおもうんだが…
「おい、ほんとにだれが話しかけよーが雨が降ろーがどうでもいいようだな!」
腕を引いても、女はすんなりと引っ張られるままで、川に執着しているふうはないというのが、ますます気がしれないが、それでもこいつをひとりにする気にもならず、おれたちは、そこに並んだ。
なんとなく顔の傷を撫でる。
そうして、おれはとうとう、じぶんのガキのころの話やいわゆる身のうえ話なんかを、なぜか、はじめてしまったのだった。
しんみりした秋の雨に向かって。
「おれ、アメリカへ渡ろうかな」
ふと脈絡もなく、そんなことばがまろび出た。
空に響き渡る汽笛。
大西洋の海岸からゆっくり動き出す豪華客船、その甲板からこちらに頬笑む男女は、天使のように祝福されて、地上にありとあらゆる希望とよろこびを振り撒くかのようだった。
かつて雪とともに暗黒街に降り立った天使と、彼に寄り添う気高い天使。
その祝福が、わずかな命を救いだして大西洋に散ったあと、おれはその船着き場で、飽きもせず日がな佇んでいたことがあった。
ゆき交うひとはおれが海を眺めているとおもったことだろう。
いまおもえば、おれは海上に、あの希望をいまだ求めていたのかもしれない。
この女が気にかかってしまう理由がわかってしまったらしいな、とおもうと、そのとき、おれは彼女に釘付けになった――――はじめて視線が合ったのだ。
それまでどこを見ているわけでもなかった瞳が、あきらかにおれの顔を捉えているのだった。
「…!」
女はハンカチを取り出し、おれの頬を拭いた。
ぽんぽんと水分を吸い込ませる――――いつのまにやらなま温かい滴が、おれの目から伝い落ちていたらしい。
しかし涙を隠すよりも、彼女の瞳の奇跡のほうが、ずっと重要だった。まさに、人形に生命が吹き込まれた奇跡に、立ち合ってしまったかのような。