第2章 寒地にて
手ぶらの私は汗をかきながら一生懸命彼の後をついて行くのが精一杯で、とても追いつくことなど出来ない。成程、構内で見せた彼の含み笑いの意味が漸くわかった。
「今年の冬は寒くて大変良い具合です」
不意に男が、全く訳の解らないことを言って笑った。私は思わずきょとんとした。
「良い具合ですか」
流石に日本のチベットと言われるだけある土地の人間だ。暖かいところで呑気に暮らしている私とは色々出来具合が違うらしい。実際先刻から顔や手先、足先なんかが寒くて痛くてたまらない。
「こちらの人は寒い方が具合良いのですか」
「いえ、そうではないのです」
男は困ったような顔でしかし可笑しそうにまた笑って、
「冬寒いと夏が暑くなりますから、そうすると水稲がいい具合に育つのです」
「ははあ、成程」
何を熱心に考えているのかと思えば。私は感心した。道が歩きにくいの、よもやここで転んだりしたらあんまりみっともないのと考えていた私とは雲泥の差である。こちらの農学校はなかなかに立派な教論を確保している。
そう思った途端、
「あんなに重たい黒雲から、小鳩の産毛のように真白い雪が生まれるのはどういう道理なのでしょう」
男が空を見上げてポツンと言った。それが唐突だったので訝しむと、男は悪戯っぽい顔で振り返った。
「理屈でわかっていようと実に不可思議なものです。まあ最も黒雲のようなものから白雪が落ちるというのも、また世の習わしでもありますが」
私はそんな彼を何といきなり妙なことを言うことかと、半ば感心し、また半ば呆れて眺める。男はそういう私の様子にはまるで頓着なく、目を細めて一人で頷いていた。黒いコートの襟が影のようにその思い深そうに静かな顔をふちどっている。北に住む人は皆こんなに風に穏やかな風貌をしているのか。
男は慇懃に宿まで送ってくれた。トランクを宿の玄関口に置いて、にこにこ笑ってこちらを見、
「何泊なさるのですか」
「休暇は今日を入れて三日とっていますから二泊するつもりです」
そう答えて笑うと、男はそれはいいですねと目を細め、
「今日はどうぞたんと寝て下さい。旅行疲れなすったでしょう」
と、持参の風呂敷包みをおもむろに開いた。
「やあ、これは」
途端に鼻をくすぐった匂いに、私は思わず破顔した。旨そうな良い匂いだ。