第2章 寒地にて
「あれは酸化鉄分の多い田だから、過燐酸石灰をやっても酸化鉄と結びついて沈殿して、下へ盤をつくる不溶性のものになるからよくない。赤渋の田圃には骨粉をやるのがよろしい。骨粉ならばそういう心配はないからね」
男に目配せされた生徒は懸命な顔で頷いて、何やら手元のノートに書き込んでいる。
「田圃や畑の土質は一反一反違っているから、農作には臨機応変な施用が大切です。肥料の三要素は…」
男はここで初めてチョークを握り、黒板に向かった。
「窒素、燐酸、加里。この三つですね。また、私はこれに石灰を加えて肥料には四要素が必要であると考えています。前にも話したように、ここいた一帯の稲作単作農業地帯は火山灰にも強く影響されていて、土地のおおむねが酸性化されています。これを解消する為に石灰が有効なのです。科学肥料はあまり奨めません。あれは土が痩せるし、地盤が沈みますから」
男はそう言ってちらりとこちらに目配せした。私がちょっと頷いて答えると、にっこり笑ってまた黒板に向かう。
「きちんと設計した有機肥料をやれば、土は柔らかくなって空気の流通もよくなるし、表土も厚くなります。先ず土壌を肥沃にしなけりゃなりません」
男は授業の間、何度もこれは実践問題ですよ、そして考えてご覧なさいと口走った。間に間に応用問題を出しては、さあ、実践問題ですよ、考えてご覧なさいとまた繰り返す。どうやらこれは彼の口癖らしい。何度も問題を出し、解かせ、そうして実に解りやすい説明をする。大変な速さで板書し、生徒にはなるべく教科書を見るなと言う。その上彼は、そうして書きつけたことの四分の三程を「これは忘れましょう」「これも忘れてしまいましょう」と、授業の最後には消してしまうのだ。徹底して要点だけを指導しようとしているらしい。
そして最も驚かされたのは、男が生徒の家の田圃や畑の作物のみならず、土質までも残らずすっかり把握しているということだった。黒板の前で拳を握りしめて男は言う。
「兼井君の家の田圃はあんまり窒素が多いからね。もうすっかり灌水を切って、そうして三番除草はしないことだよ」
「北里君の家の陸羽一三二号は、いいね、硫安を撒くんだよ。あんまり肥料をやりすぎちゃいけない」