第2章 寒地にて
「今日は作物の授業をします。作物というと私の授業は主に稲作のことなのですが」
あの早足で歩きながら早速話し出した男をまともに見てみれば、何と手ぶらである。
「教科書はどうなさるんですか」
面食らって尋ねると、一瞬訝しげな顔をした後、
「ああ、私は教科書は使わないことにしているのです。あれは内容が東京中心に書いてありますから。どうしたってこの地方には合わないでしょう」
と、朗らかに答える。成程、全くその通りである。私は感心した。
「そう言われてみればそうですな」
「同じ地方でさえも一反一反違う条件の元で作物を扱わなければなりません。そうして考えるとむしろ教科書などない方がよく教えられるようですし、また生徒もよく身につくそうです」
話しながら男は教室の引き戸に手をかけた。
「では」
と、男は不意に引き締まった顔で私を振り返った。
「質問は生徒と同じように挙手してお願いします」
そう言うと今度はにっこり笑って、大きな声でお早うと言って中に入る。途端に生徒たちのお早う御座いますの声が吃驚するような大音量で返って来た。私は面食らいながら男に続いて中に入った。
男は教壇に立つとよく通る声で生徒たちにこう告げた。
「今日は南方の先生が授業の視察に来ていますが、そのことは気にしないでいつも通りにしていて下さい。私もいつも通りに授業をします。いいですか」
「はい」
「よし、では、授業に入ります」
男は大きく頷いてにっこり笑った。
「去年の五月に行った藁焼きを覚えていますか」
と、教科書を持たずにがら空きになっている両の手を固く握りしめ、大真面目な顔で生徒を見回す。
どうやら男は昨年の春、実際に田圃に藁を敷いて火をつけ、焼土と藁灰の効果、それに加里肥料の必要性を教えたらしい。さぞやに楽しい実習であったろう。何年か前に火が危ないという理由で計画していた藁焼きを止められた私は、それきり諦めていた思惑を目の前で朗々と語られて当惑した。
[しかし例えば赤渋の田圃には、過燐酸石灰をやってはなりません。大田代君の近所がそうだね」
男がそう言うと生徒の一人に目配せした。