第35章 水とワイン/Água e Vinho【おそ松/マフィア松】
「おい、帰るぞ」
待たせてあった車に声をかけ、自分でドアを開ける。居眠りでもしていたのか運転手は慌てて帽子を被り直した。
「もうよろしいんで?」
「ああ。帰る。なんか疲れた」
シートに座れば、昨夜の愛菜とのキスを思い出す。彼女の体温、甘いにおい。手のひらにもまだ膨らみの感触が残っている。
車はゆっくりと動き出した。
俺はどうしたんだ。何もあんなカタギの女を好きにならなくてもいいだろ?
それにもし婚約者がいなかったとしても、俺たちマフィアの世界に愛菜を引きずり込むのはかわいそうだ。
いや、『婚約者がいなかったら』ってなんだよ。そんなありえない仮定は無意味だっての。
大きく息を吐いて、気分を変えるように頭を振る。呼吸と一緒に頭の中の記憶ごと全部入れ替えられたらいいのに。
「諦めろよ、オソマツ……」
小さく言い聞かせる。
最初から縁のない女だったんだよ。婚約者も解放してやったし、あとはふたりの幸せを願うだけだ。
シートに深く座り直すと、運転手がちらりと振り返った。
「ドン、今日もつけられているかもしれません」
「何? まさかまた警察か?」
「たぶんそうでしょう。昨日はいなかったんですがね。まあ、探りを入れているだけかと思いますが」
警察のやつら、まだ俺をつけ回してんのか。昨日の今日だし、市長もまだ話をつけていないんだろうな。カラマツにも大丈夫だと言っちまったし、さっさとしてほしいところだが。
「警察もヒマだな〜。あいつら、俺のこと大好きなんじゃね? ま、気にすんなよ。そのうち、いなくなるはずだからさ」
「はい……」
やや狭いストリートを曲がると、我が家が見えてくる。ドアの前に女が立っているのが目に入った。
「っ! 愛菜!?」
女がハッと顔を上げる。車の中に俺の姿を確認すると、ホッとしたように表情をゆるめた。
間違いない。愛菜だ。
車が止まると、俺はすぐに降りて愛菜に駆け寄った。
「どうしたんだよ? 俺に会いに来たのか?」
「はい! よかったです、会えて」
よかったですって、会いにきちゃまずいだろ。
俺は辺りを伺うと、愛菜を素早く家の中に入れた。