第35章 水とワイン/Água e Vinho【おそ松/マフィア松】
《おそ松side》
人が滅多に通らない町外れの草地。その奥にある薄汚い倉庫を俺は見上げた。
「ここか……」
昨夜は散々だった。愛菜という女にたった一晩で恋をしてフラレた。まさか婚約者がいるなんて思いもしなかった。よほど浮かれていたらしい。
煙草の火を消すと、勢いよく倉庫のドアを開ける。カラマツと部下たちが一斉に振り返った。
「オソマツ!? なぜここに?」
カラマツたちが囲んでいるのは、椅子に縛られた若い男。力なくうなだれているから表情まではわからない。こいつが次の市長選の立候補者――つまり、愛菜の婚約者だ。
「間に合ったみたいだな。まだ何もしてないんだろ? カラマツ、ちょっと予定が変わった。この男を今すぐ自由にしてくんない?」
「は!?」
カラマツが口を開けた。
「何を言っている? 脅せといったのはオソマツじゃないか!」
「そうなんだけどさ、いろいろ事情が変わったの! この男に怪我をさせないでほしいんだよね〜。なあ、おまえら、早く縄をほどけよ」
部下たちが困ったように俺とカラマツを交互に見る。どちらに従えばいいのか迷っているらしい。一応、俺がドンなんだけど。
カラマツが腕を組んだ。
「ウェイトだ、オソマツ! 突然やめろと言われても納得できない。理由を聞かせてくれないか?」
「理由? そんなのねーよ。俺の気分」
「バカなことを言うな。もう取り引きをしたんだろう? 一度約束を反故にすれば、信用を失う。次はもうないんだぞ?」
「だろうな。わかってるよ」
ちらりと男を見るが、まったく動く気配がない。気絶でもしてんのか?
俺は男の髪を掴んだ。ぐいと引き上げると、怯えた顔が現れる。どうやら意識はあるらしい。
「なあ、兄ちゃん。本当はおまえを死なない程度に痛めつけるつもりだったんだ。でも気が変わった。何もせずに解放してやる。ただし、次の選挙は出るな」
「そんなこと……」
男が弱々しく返す。
「おまえ、女がいるんだろ? 政治なんてつまんねぇよ。新しい仕事でも探してふたりで幸せになれ。なんなら、俺がいい仕事を紹介してやる。な?」
縄をほどくと、男はフラフラと立ち上がった。
「ほ、本当に帰っていいのか……?」