第34章 イジワル上司の松野さん【トド松】
ふと視線を上げると、松野さんと目が合った。目を丸くしてこちらを見ている。
「っ……!」
今の聞こえちゃった? 悪口を言っていると思われたんじゃ……。私は別に何も……。
松野さんが何か言いたそうに口を少し開ける。私は慌てて目をそらすと、勢いよく席を立った。
耐えられない。
部屋を出て、足早にトイレへ向かう。胸が重い。締めつけられるような感じがする。廊下を歩きながら、私は大きく息を吐いた。
昨日までは松野さんの悪口を聞いてもなんとも思わなかった。むしろ、自分も愚痴ってたぐらい。なのに今は、松野さんに聞こえたんじゃないかとビクビクしてしまっている。
私はトイレに駆け込むと、個室に入った。とりあえず用を足し、すぐに出る。手を洗いながら、目の前の鏡を見ると、泣きそうに顔を歪めている自分がいた。
たしかに昨日までは平気だった。松野さんにどう思われようがどうでも良かった。でも今は彼に嫌われたくない。悪口を言っているなんて思われたくない。松野さんによく思われたい。
「なんで……松野さんなんかに……」
水道を止め、私はつぶやいた。
鏡の中の自分がじっと私を見つめている。
『なんでって、理由なんて自分でちゃんとわかってるでしょ?』
そう言っている気がした。
わからないよ。いや、わかりたくない。
昨日、エレベーターの中で覚えた甘い興奮はきっと気のせいだ。あんなことがあったからって、私が松野さんなんかを……。
「あんな意地悪でイヤな上司……気になるわけないよ……」
誰もいないトイレに私の独り言が響く。
だいたい昨日のことはただの事故みたいなものだ。松野さんも忘れるって言った。私一人が気にしてるなんてバカバカしい。早く記憶から抹消したい。
私は手櫛で髪を直すと、深呼吸をした。
気にしない。忘れる。松野さんはただの上司。しかもイヤなやつ!!
「よし」
仕事に戻ろう。
私はうなずくと、廊下へ飛び出した。
「わっ!」
瞬間、誰かにぶつかりそうになり、間一髪で避ける。
「あっ、すみませ――」
顔を上げて、私は言葉を失った。
「奥田くん……」
聞き慣れた声。
松野さんが目の前に立っていた。