第1章 真鍮の寂び
事情をお登勢から聞くと、どうやらその依頼人はアトリエに侵入してきた強盗犯と一悶着して利き手の神経を一部傷つけてしまったと言う。ただ命に別状はなかったらしく、むしろ気弱な強盗犯を追っ払うために相手を脅迫したらしい。
犯人は果物ナイフを両手で握りしめて震えながら鍵のかかっていないアトリエに踏み入ったものの、煙管を吹かして一服していた依頼人の画家に逆に詰め寄られたと言う。画家は犯人に玄関から数歩以上の侵入を許さず、入ってこようとする彼のナイフを利き手で握り封じ、動きを止めたそうだ。そしてもう片方の手で、玄関付近に置いてある筆洗用の灯油が入った小さなバケツの真上に煙管をかざした。あとは肺に残っていた紫煙を男に吹きかけ、創作の現場を荒らすようなら灯油に吸い殻を捨てて犯人と作品もろとも焼身してやる、と見栄を切れば男は逃げたそうだ。
芸術家だからなのか、またはお登勢と同じ世代の人間だからなのか、それとも単純に江戸の女は得てして負けん気が強いからなのかは分からないが、還暦過ぎたはずの彼女は見事に犯人を退却に追い込んだ。しかも、よくよく考えると彼女はハッタリでその場を切り抜けている。
年代的にギリギリではあるが、銀時は灯油を扱ったことがある。彼女のように絵の具を筆から落とす使い方はお登勢から聞いて初めて知ったが、幼い頃は簡易的な灯りを灯油で作っていたので基礎知識はあった。その一つに、灯油は直接火種を入れたところで燃えやしないという事実がある。灯油は性質上、ロウソクと同じように紙なり紐なり何かを芯にしないと燃えないのである。もちろん炎天下などの環境で油が煮え滾っていれば話は別だが、室内で温度が管理されている灯油はたとえ吸い殻を落とされようと、その灰ごと飲み込んで鎮火するだけだ。
世代的に銀時よりも灯油の扱いは長けているはずなので、本当に油ごとアトリエを燃やすつもりはなかったはずである。ならば導き出せる答えはただ一つ。恐らく、強盗犯はライターだのガスコンロだの、近代的なからくりでしか火を扱ったことのない若造だったのだろう。もしかしたら灯油の匂いすら嗅いだことのないほど青いのかもしれない。