第3章 2 暖かな黒の中で
ただ、その漆黒を纏う人物だけは深くその記憶に刻まれているその人で。
まさかこんな場所に現れるとは想像もしていなかっただけに、あの女性は誰なのだと騒ぎ立てる。
ダンス終盤に差し掛かると共にその輝きを認識する事は尚更難しく、次第にあれ程までに目立っていたというのに探すのもやっとという状況になると、察しの良い上流の貴族達は理解した。
あぁ、あの男はあの女性を他の人間に渡す気は無いのだと。魅せるだけ見せ付けて、その輝きへと手を伸ばした瞬間にはもう深い闇へ隠してしまう気なのだと。
私達があの輝きに触れることは叶わないのだと、そう思い込ませるには充分であった。
そういった嗟嘆した溜め息や、未だにあれは誰なのかと探り続ける者達のざわめきの中で、唯一真っ直ぐにその輝きを見つめ続ける瞳があった。
同じように全身を黒に身を包んでいるというのに、今日ばかりは誰もその姿に怯えるものはない。
故に曲の終わりに近付くに連れ、輝きを追うように急ぎその場を離れたことに気付く者も居なかった。
デビュタント達の最初のダンスが終われば、後は自由に踊ったり、各々が目的の為に動き始める。
「お疲れ様でした。お見事でしたよ、素晴らしいダンスのお相手をさせて頂き、ありがとうございます。」
誰しもうっとりとしてしまう笑顔を向けられ、指先へ柔らかな口付けをされたというのに全く思考が付いていかなかった。
だって、…あぁ、まるで夢を見ているみたいだった。
強く抱き締められているのではというくらいの距離で、私の騒ぎ立てるこの心臓が、上手く出来ているかすら分からない息遣いが、全て伝わってしまっていたと感じるくらいだった。
それなのに、不思議と身体は辛くなくて、羽が生えたかのように軽く、自分がどうやって動いていたかも分からないくらい、ルシスさんに身を委ねてしまっていた。
ずっと、その恐ろしく整った美丈夫が真っ直ぐに、吸い込まれるのではと思うくらい真っ直ぐに私を見詰めていて、そして金縛りのようにその瞳から目が逸らせなくて。
ずっと続くのではと思うような意識の中、あっという間だったとすら思えた、こんなにも甘く華やかな時間があったのかと溜め息が漏れた。
未だにふわふわした意識の中で、自分がルシスさんに軽く凭れてしまっていることにようやく気が付いた。