第3章 Hands to myself (江戸川乱歩)
「新しいレシピですよ。」
そう言って彼女は、僕にグラスを渡した。
「今回は何味なんだい?」
僕が尋ねると、当ててくださいとばかりに肩をすぼめられる。
「…ふむ。」
僕は鼻を近づけ、それの香りを吸い込む。
「…君、僕はレモンが苦手だって言わなかったっけ?甘いのがいいよ、イチゴミルクみたいな。」
「文句は飲んでから言ってください。ほら!早く!」
彼女の言葉に渋々口をつければ、程よい酸味と甘味が舌に流れ込む。
思わず美味しい、と零せば、そうでしょう?と返ってきた。
「乱歩さん専用レモネードです。」
「うん、後味もすっきりしていて素晴らしい。気に入った!」
彼女は前からいい香りがした。
いつだってフルーティーでフレッシュな香りがした。
バナナやイチゴのような甘ったるい香りじゃない。
どちらかと言えば柑橘系。
爽やかな涼風を思わせる、夏蜜柑のような。
そんな香り。
そして彼女の机には、いつだって新鮮なフルーツがあった。
近くのファーマーズマーケットで買ってくるんだと、いつだったか言っていた。
飾り気のない社の中で、彼女の机だけはいつだって季節感溢れるフルーツが置かれていた。
朝の仕事が一段落すると、彼女は給湯室に入り、自前のフルーツナイフでするするっと皮をむく。
そしてこれまた自前の、西洋製のブルーのグラスに飾り付け、陶器の絵のついたフォークで新鮮なフルーツをパクリと食べる。
朝ご飯はこれで十分だ、と前に笑っていたっけ。
あんまり美味しそうに食べるもんだから、みんな気が散ってしまって、その瞬間は仕事にならない。
時折、太宰や与謝野さんが横からそれを突いては怒られているが、彼女は二時ごろになって暑くなってくると、大概自前のフルーツでジュースを作ってみんなに振舞う。
つまり今回のレモネードも、その一環なのである。