第32章 許せない男
――安吾がやって来る十数分前。
地下の駐車場に来てすぐ、太宰さんはあたしに1つの命令を下した。
「太宰さんたちが乗る自動車を!?」
「そう。君の異能で襲撃して欲しいんだ」
「そんなことできるわけない! 1歩間違えば、太宰さんは死んじゃうんだよ!?」
絶対イヤだ、と言うと、太宰さんは真剣な声音で「詞織」とあたしを呼んだ。
「これは必要なことなんだ。今後の為にも、鏡花ちゃんの為にもね」
あたしは固唾を呑み、黙って続きを促す。
「鏡花ちゃんが探偵社に入社できる作戦のことは聞いていただろう? 安吾にケガを負わせ、治療と引き換えに、こちらの条件を呑ませる」
「だからって……」
わざわざ太宰さんまで、事故を起こすと分かっている自動車に乗らなくても……。
そんな考えが顔に出ていたのか、太宰さんは小さく笑った。
「ついでに、特務課が把握している組合の情報も引き出してくるつもりだ。だから、安吾の服に血液を付着させて、会話を聞けるようにしておいてね。こちらから合図を出すから」
太宰さんに付着させた血液からの『盗聴』は『人間失格』によって無効化される。
けれど、他者に付着させた血液は、太宰さんには一切触れていないから、太宰さんの声も聞き取ることができる。
「……そんな顔しなくてもいいじゃないか。仮に私が死んだとして、君は何が困るんだい? 私はようやく死ねて、君は私を殺せて、万々歳だろう?」
「それは……! そう……かも、しれないけど……」
太宰さんを殺すのはあたし。
自動車を襲撃して太宰さんが死んだとしても、それはあたしが殺したことと同じ。
あたしの望みも叶えられるのだから、躊躇することはない、けど……。
ギュッと拳を握りしめて言葉を紡げずにいると、太宰さんは肩を下げてため息を吐いた。
「大丈夫。いくら自殺愛好家の私でも、この戦争を中途半端に投げ出して死ぬつもりはないよ」
エアバッグが作動するから、多少のケガを負っても、死なない。
そう、太宰さんは言った。
死ぬつもりはない、と。
太宰さんがそう言うのなら、きっと太宰さんは死なないのだろう。
頭を撫でてくれる太宰さんから、あたしは無意識に俯いて顔を隠した。
* * *