第5章 【伊武崎峻】言えなかったこと
「俺、さ…「やだ……聞きたくない!」
また溢れ出して来た涙を拭いもせずに、扉に背を預けて耳を塞いで蹲る。
続きを聞くのが、怖くて仕方がない。
何の話をされるの?あの子とのこと?私とのこと?
「ごめん、だけど…には聞いて欲しい」
小さく、けれど確かに聞こえたその言葉は、酷くずるいもの。
そんな風に言われたらもう聞きたくないなんて言えなかった。
「俺、中学別のとこ受験した」
真っ暗から真っ白に変わる。
耳に入って来た言葉は、予想していたよりも遥かに重く、どうしようもないものだった。
涙なんてどこかへ消えて、気付いたら震える足で立ち上がり扉を開け放っていた。
「どうゆう、こと…」
私の顔をその瞳に映した峻の表情が驚きに染まる。
あぁ、さっきまで泣いていたのがばれてしまった。
でも今はもうそんなことどうでも良くて、それが伝わったのか、峻は何か言いかけた口を一度閉じてから話し出す。
「俺が昔から料理好きだったのは知ってるだろ?」
知らないわけがない。
今日のチョコレートの交換だって、本当は私があげるだけでいいのに毎回峻も作って来て、ホワイトデーもまた二人でお返しを贈り合う。
普通に作るご飯だって、今じゃきっと峻の方が断然上手いはずだ。
「将来のこととか、まだよくわからないけど、」
なんで相談してくれなかったの?とか、
この場所を離れることに何の躊躇いもないの?とか。
聞きたいことはたくさんあるはずなのに、峻の真剣な目を見ていたら、もう止められないんだってわかってしまった。
「やれるだけやってみたいんだ」
お前に引き留められると行けなくなる気がして言い出せなかった。
そう言って笑った峻は何倍も大人で。
なんで私は素直に「いってらっしゃい」と言えなかったのか、今でも時々考える。
この頃の私はまだ子供で、峻を傷つけることしか出来なかった。
今思えば、峻のことを理解している気になっていた自分が恥ずかしくて、情けなくて、大切なことを隠されていたという事実がただ悲しかったのかもしれない。
そして私は、勢いだけで言ってしまったんだ。
「峻なんか大嫌いだ」「もう、顔も見たくない」と。
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