第4章 恋知りの謳【謙信】
美蘭は信長に帰るぞと言われ素直に返事をしたと同時に
「信長様…はい…きゃっ…」
信玄の馬に自分の馬を寄せた信長にグイ!と抱き寄せられ、信長の馬に乗り移らせられた。
「…このうつけが!」
信長の前に抱き抱えられながら、叱られる美蘭。
「す…みません…っ…。」
「謝罪などいらぬ。その呑気な顔をよく見せろ。」
「…っ!呑気だけ余計ですっ!」
信玄は、
自分の腕の中から消えた体温になんとも言えない虚無感を覚えた。
「…っ。」
信玄の無言の視線に気づいた美蘭。
「あの…信玄様…。」
鈴が鳴るような愛しい女の呼ぶ声に、
信玄は胸が甘く締め付けられた。
「良くしていただいてありがとうございました。」
美蘭の続く言葉に
「貴様気は確かか。攫われていたのだぞ。」
信長は心底呆れた顔をした。
「…でも本当に…春日山では良くしていただいたんです。」
可愛らしいくせに一途というか頑固というか…
信長の威圧に負けぬ敵軍…しかも自分を攫った輩への感謝の気持ちに、信長は苦笑した。
「…全く…好きにするが良い。」
「ありがとうございます。…信玄様、春日山の皆様に…ありがとうございましたと…よろしくお伝え下さい。」
天女が
…美蘭が
信玄に向かって、ふわりと笑った。
「…っ!」
天女の念願の笑顔は、
敵軍の将の腕の中。
しかも
「春日山の皆様に…」
そう言った美蘭の胸の中には
謙信が存在しているに違いない。
信玄は、
行き所のない切なさに、
呼吸すら妨げられるように感じた。
(…残念ながら口づけはもらえないが)
だが
(…………美しいな…。)
最後に笑顔を自分に向けてくれたことが、
素直に嬉しかった。
「信長。今日は天女に免じてこのまま引くが。近いうちに…その首を取りに行ってやるからな!」
「…たわけ。貴様こそ楽しみに待っておれ。この俺がその首、胴体から切り離してくれるわ!」
美蘭を横抱きにした信長はそう言い放つと、ひらりと方向転換をして、織田軍の待つ橋のたもとに向け馬を走らせた。
(天女に幸あれ…。)
信玄は、
自分から離れていく美蘭の幸せを祈った。