第19章 恋知りの謌【謙信】湯治編 〜恋心〜⑤
「さーてと。それじゃあ準備を始めるか。」
ほんの一瞬流れた気まずい空気を、秀吉の一言が拭い去った。
「……準備?」
「狼煙(ノロシ)を上げて緊急事態になったことを伝えながら、おまえが歩けるように…その辺の木で、杖を作る。」
秀吉は、てきぱきと動き回り、狼煙の準備をしながら説明した。
「秀吉さん…。」
美蘭は、こんな緊急時でも、沈着冷静で頼り甲斐のある秀吉に関心していると
あっと言う間に火を起こし、狼煙を上げた秀吉が呟いた。
「誰かが気づいてくれるといいんだが…。さて次は杖だな。」
今度は、足を痛めた美蘭が歩けるように杖を作るため、杖の素材となる木や蔦(つた)を探し始めた秀吉は、
「ちゃんと帰してやるからな?おまえは何も心配しなくていいからな。」
手元は絶えず動かしながら、美蘭が不安がらぬよう、努めて明るい声で、そう言った。
「…心配してないよ。秀吉さんと一緒だもん。」
「…!…そうか。なら、いい。」
美蘭が可愛い笑顔で素直な気持ちを口にするたびに、秀吉の心は掻き乱された。
どんなに全幅の信頼を寄せられても、
どんなに近づいても、
この目の前の愛しい女は、
もう既に謙信の…他の男のものになってしまっているのだから。
秀吉は
溢れ出そうになる思いを溢れさせてはならぬ…と、美蘭に背を向けて、視界から愛しい女を除外し、黙々と杖を作った。
だが、姿は見えずとも、美蘭は秀吉の心を揺さぶり続けた。
安土で共に暮らしていた時には、
信長に命を預け、いつ死ぬか分からぬ自分が誰かと…女と心を通わすなど有り得ぬと、自分の気持ちに蓋をしていた。
だが、
他の男のものになったと聞いて、もう安土には帰って来ないと聞いて、かけがえのない存在になっていたことを思い知らされた。
(そのまま会えずにいたほうが…どれだけ良かったか。)
考えても考えても、自分の気持ちを思い知らされるしかない秀吉であった。